エリート弁護士と婚前同居いたします
「とにかく、もう離して!」
「逃げない?」

 先程までの弱気な声はどこへやら。面白がっているような声で彼が囁く。
「に、逃げない!」
 返答した途端にお腹にまわった彼の腕がする、と離れた。ただし、私の手首をつかんだ指はそのままだ。
「念のため、な。お前の手首、細くて折れそう。力を入れるのが恐い」
 まじまじと彼が私の手首を見つめる。その伏し目がちの目に不覚にもドキドキしてしまう。

「折れないから!」
 彼に握られている手首が熱い。ブンブン手を振ってふりほどこうとするのに彼の指はまったく離れない。
こんなのおかしい。一歩間違えたらストーカーと思われても仕方ないことばかりされているのに。どうして私はこんなにドキドキしてるの? 

「なあ、侑哉の結婚を邪魔する気がないって言うなら本気で俺との同居を考えてくれないか?」
 形勢逆転、というかのように飄々と彼が言い放つ。
 暴れる鼓動と何もかも見透かすような上尾さんの言い方が腹立たしくて彼を睨む。そんな私とは裏腹に彼は穏やかな表情を浮かべる。

「実家には戻れないって侑哉から聞いた。今から一カ月以内にここで同居する相手を探せるのか? ちなみに俺は独り暮らしが長いから家事全般はできるぞ?」
 挑戦的にさえ見える魅力的な笑顔で彼が私を見おろす。
 私の事情がどうしてこうも筒抜けなのか、甚だ疑問だ。

「だ、だからって、あなたと同居するとは限らないでしょ!」
「すると思うよ? こんないい条件はないから。はい、これ」
 そう言って彼が私の手首から指を離した。指の感触が少し残る。彼は斜めがけにしていた自身のバッグからクリアファイルを取り出して私に差し出す。

「何、これ?」
 反射的に受取ってしまってから問い返す。
「俺が住んでいる物件の間取りと、諸々の条件。口で言っても信じられないだろうから持ってきた。これを見て考えて。三日後に返事を聞くから」
「ちょっと待って! 私そもそも同居なんて!」
 慌てて言う私の声なんて聞こえないかのように彼は片手をあげて、足を止めることなく颯爽と帰っていく。何もかも彼のペースだ。

「なんでこうなるのよ……」
 渡されたクリアファイルを両手でぐっと握りしめて私は呟く。廊下から見える夜空は澄んでいて、私の気持ちとは裏腹に綺麗な月が輝いていた。
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