エリート弁護士と婚前同居いたします
ああ、そうだね、詩織。今なら私、ひとめ惚れを信じることができるよ。

 私はこの人を全く知らなかった。今もきっとほとんど知らない。だけどそれでもこの人の全てがこんなに愛しくて胸がいっぱいになる。その綺麗な焦げ茶色の瞳に自分が映るだけでこんなにも嬉しくて泣きたくなる。

 トクントクントクン。
 鼓動が幸せなリズムを刻む。私はこの人が好き。

「好き」
 自然に言葉が漏れた。

「え……?」
 綺麗なチョコレート色の瞳が動揺して揺れる。大きく見開かれた目。

「朔くんが、好きです」

 彼の目を真っ直ぐに見て言う。彼に包まれた両手が微かに震える。
 朔くんは瞬きを一度して、唇をぎゅっと結ぶ。険しい表情で、私の手を頰から下ろす。私の足元に落ちたままのバッグを拾い上げ、さっと踵を返して私を引きずるように早足で歩きだす。

「さ、朔くん!?」
 どうしたの? どうして何も言ってくれないの?
 彼の豹変した態度に動揺が隠せない。彼は相変わらず渋面を顔に張りつけたまま、私を到着したエレベーターに押し込む。音もなくエレベーターが上昇する。無機質な階数を表す液晶表示を呆然と見つめる。

 ドクンドクンドクン、心臓が先刻とは違う嫌な音を立てる。
 私、何か間違えた? 自分の気持ちを言ってはいけなかった? 迷惑だった? もう私のことは好きじゃない?
 頭を瞬時に駆け巡る不吉な予感。胸が苦しくなる。

 彼が待つと言ってくれていた、その気持ちを勘違いしていたの? 私、思いあがっていたの? 同棲じゃなかったの?
 ジワリと涙が滲む。一緒に暮らしているのに、振られて泣くなんていう彼を困らせることはしたくない。ギュウッと唇を嚙みしめる。この痛みはなんの痛みなんだろう。 
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