古き良き時代(短編集)
世界は廻る
【世界は廻る】




 むしむしと、黄土色のにおいがする日だった。

 朝起きる、仕事へ行く、帰ってごはんを食べて、お風呂に入って、寝る。毎日同じことの繰り返し。平凡以外の何ものでもない日々。当たり前のようにそんな日々を送っていたけれど、ある朝ベッドから出てカーテンを開けた時、ふと思った。

 わたしがこの世から消えてしまっても、わたし一人が消えたとしても、この世界には何の影響もない。
 それに気付いてしまって、急に何もしたくなくなった。

 いつもなら慌ただしく出勤の準備をしている時間だ。だけどわたしはただ窓辺に突っ立って、ただひたすら外を見ていた。

 ママチャリで爆走するサラリーマンを見た。彼はどうしてあんなに必死なのだろう。立ち漕ぎをして、朝から汗だくで、何を目指しているのだろう。

 泣き喚く子どもの腕を引いて怒鳴っている女性を見た。彼女はどうしてあんなに怒っているのだろう。朝から金切り声をあげ、こめかみに血管を浮かべて。幼稚園に行きたくないと駄々をこねる子どもに。

 真っ青な顔で走る少年を見た。彼はどうしてあんな顔色で走っているのだろう。ぼさぼさの頭で、ジャージの上着を脇に抱え、リュックサックに制服を詰め込んで。

 彼らだって同じだ。彼らが一人消えたとしても、世界には何の影響もない。あんなに必死にならなくても今日は始まっているし、何があろうと今日は終わるのだ。



「くだらない……」
 呟いてみたら、分かってしまった。

 わたし一人消えたところで何の影響もない世界で、それでもわたしは生きている。朝は眠いし太陽は眩しいし仕事に遅れるかもしれないと焦り出したし、どうやらお腹も空き始めた。

 朝起きる、仕事へ行く、帰ってごはんを食べて、お風呂に入って、寝る。平凡でも日常。最初から分かりきったことだった。

 窓の外に見えたサラリーマンも女性も少年も、もちろんわたしも。この広い世界の中で、自分たちの小さな世界を作って生きている。広い世界の中じゃあ一人くらいいなくなっても何の影響もないけれど、小さな世界の中じゃそうはいかない。

 あのサラリーマンが立ち漕ぎをやめ会社に遅刻してしまったら、大事な商談が白紙になってしまうのかもしれない。あの女性が泣き喚く子どもを見捨ててしまったら、あの子は二度と幼稚園に行かなくなるかも。あの少年が部活の朝練をサボって時間ギリギリまでゆっくり寝ていたら、その間に練習していた皆に差をつけられレギュラーを取れないかもしれない。

 それぞれがそれぞれの世界で生きているのだ。他人から見たらくだらなく思えることも、当人たちからしたらくだらなくなんてない。平凡な日常を、精一杯生きている。

 そしてわたしはようやく窓辺から離れ、時間を確認しながらキッチンへ向かった。いつもより時間は足りないというのに、不思議と気分は穏やかだった。





(了)
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