手の上に褒め言葉を
そんなつまらない意地のせいで、わたしたちは多くの時間を無駄にした。せめてあと数分早く伝えていれば、これからの話もできただろうに。
でもわたしたちに必要だったのは、今、この瞬間。過去から絶えず流れ続け、わたしたちが立っているこの時間。今だ。
「なあ、春川。おまえは俺が好きで、俺はおまえが好きだけど」
「お、おう……」
「転勤するおまえに、がっつり遠距離恋愛をしようなんて強要はしないからさ」
「……」
「ゆっくりやっていかないか? 俺もこっちで頑張って本社に……や、本社じゃなくても、行き来しやすい近くの支社でもいい。とにかくそっちに行けるように頑張るから。待てるか?」
そんなこと、愚問だ。待てるに決まっているし、距離ごときに負ける気持ちでもない。青沼を好きになってから、今この瞬間まで、六年もかかったんだ。その時間は、わたしの気の長さを証明している。
いつものわたしならここで「ばっかじゃないの、愚問ね」と、生意気に言ってしまっていただろうけど、今日は違う。今日だけは違う。
素直に「分かった」と頷くと、青沼は珍しく優しい顔をして笑った。
そして「よし」と。自分に言い聞かせるような声を出すと、掴んだままだったわたしの左手を持ち上げ、その甲に、優しく唇を押し当てた。
大勢の人が行き交う場所でこんなこと……。頬がかあっと熱くなり、心臓が皮膚を突き破って、勢い良く飛び出してしまいそうなくらい恥ずかしかったけれど。階下からエスカレーターで昇って来た人たちが、わたしたちを見てぎょっとしたけれど。
青沼がわたしの目をすっかり見据えながら「これが俺の気持ちだよ」と言って、この行為の意味に気付いたら、わたしは堪らなく誇らしくなって。「ありがとう」とはっきりした声で伝えた。
これは、尊敬のキスだ。
青沼は、前にわたしがした雑談を、憶えていたのだ。
オーストリアの劇作家、グリルパルツァーが書いた『接吻』の中の言葉だ。手の上や額、頬や唇など、キスをする場所にはそれぞれ意味がある。手の上なら「尊敬」――この行為は青沼から贈られた、最上級の褒め言葉だった。