愛を呷って嘯いて
ふたりで少し遅めの昼食をとり、後片付けや掃除や洗濯をした。その間の会話は一切なかったけれど、家の中の雰囲気はそれほど悪くなかった。
お父さんやお母さんとなら経験がある、ごく平凡な家族の光景だ。
晴れやかな気分で洗濯物を干していると、背後から「なあ」と声をかけられた。振り向いた先にいた彼は、スーツのジャケットを持っていた。
「昔手芸部だったよな。ボタン、付けられる?」
「え、あ、うん、勿論」
「じゃあ付けて。ボタン取れかかってんだ」
「ん、わかった」
軽やかな足取りで彼に歩み寄り、ジャケットを受け取る。よし、と気合いを入れて息を吐くと、彼は「ボタン付けってそんなに難しいの?」と首を傾げた。
ただのボタン付け。ほんの数分で終わることだけれど、わたしにとっては大仕事。ようやくこの時がきたのだ。こんな日が来るのを、十四年間待ち続けていた。わたしは彼のために、ありとあらゆることに興味を持ち、学び、身に付けたのだ。
手芸部だったと憶えていてくれことも相まって、言い様のない喜びが身体中に溢れていた。
小学生の頃から使っている裁縫箱を持ってリビングに下りた。
二日酔いなのだから部屋でゆっくり休めばいいのに、なぜだか彼は朝からずっとリビングのソファーで横になっていた。
わたしが床に腰を下ろすと、のそのそと身体を起こしてじっとこちらを見るから、幾分緊張しながらジャケットを広げた。
それにしても不思議なジャケットだ。取れかかった上のボタンはジャケットと同じ濃紺の糸で付けてあるのに、下のボタンは赤い糸で、しかもかなり適当に付けられている。なぜこんなことに。せめて糸の色くらい揃えればいいのに……。
もしかして彼が付けたのだろうか。頼まれたのは取れかかっている上のボタンだけれど、下も付け直していいだろうか。
ちら、と彼に視線を向けると、わたしが考えていることを察したのか「下も頼む」と口を開く。
「……いいの?」
「ああ。それ会社の後輩に付けてもらったんだけど、糸の色が違うしちょっと緩いから」
「そう……じゃあ、付け直しておく……」
ジャケットに向き直り、糸を切ってボタンを外し、それらを丁寧にテーブルの上に置く。ジャケットと似た色の糸を探し、針に糸を通す。ボタンをジャケットに合わせ、糸を通した針を持ち……。
「……あの、あんまり見ないでほしいんだけど……」
その間ずっと彼に見つめられていて、必要以上に緊張する。このままではせっかく頼んでくれたのに失敗してしまう。
言うと彼は無言のまま立ち上がり、大あくびをしながらリビングを出て行った。
わたしはようやく力を抜いて、ジャケットに針を刺したのだった。