やさしく包むエメラルド
街灯に照らされた通りは明るく、雲の多い空の方が暗かった。
門を出て本当に15mも歩けばもうアパートの敷地。
駐車場を抜け、階段を上ったらわたしの部屋だ。
どんなにゆっくり歩いても2分とかからない。
「ありがとうございました」
ずっと何も言わない啓一郎さんにドアの前でそう言うと、小さくうなずいたけれど動く様子がない。
だからドアを開けて中に入ろうとしたら、
「小花」
と呼び止められた。
「はい」
アパートの廊下につけられたライトは、汚れのせいでぼんやりしている。
そろそろ寿命なのか、そのぼんやりした明かりもときどき少し震える。
その不安定な明かりの下で、啓一郎さんの言葉をひたすら待った。
「……おやすみ」
たっぷり時間をかけて、啓一郎さんはたったそれだけ言った。
「あ、はい。おやすみなさい」
名残惜しいけれど、これ以上迷惑はかけられない。
ドアを閉めて耳を澄ますと、少ししてからジャリジャリという砂を多く含んだ靴音が階段を降りていく。
リビングを突っ切り、寝室の窓から外を見たら、啓一郎さんが家に入って行くところだった。
曇り空の下の庭は暗く、居間から漏れる明かりの中にムラサキシキブが見える。
『おやすみ』たったそれだけ、と思ったけれど、わたしと啓一郎さんはそれさえ言い合うことができない間柄だ。
啓一郎さんという人を多少知ったところで、ほんの少し親しくなったところで、好きになったところで、この距離はかなり遠い。
「あ! そういえば……」
啓一郎さんからもらった懐中電灯にペットボトルを乗せてみようと思っていたのに、電気が復旧したから忘れていた。
懐中電灯を逆さまにし、水をいっぱいにした500mlのペットボトルを乗せて、電気を消した。
するとペットボトル全体が発光したように明るくなった。
舞踏会のシャンデリアには程遠いけれど、これはこれでロマンチックに思える。
きっと啓一郎さんなら、渋い顔をしながらもわたしのめちゃくちゃな踊りに付き合ってくれたような気がする。
けれど、それももうできない。
「350mlの方がよかったかな」
小さな懐中電灯に500mlペットボトルは不安定で、指で触れただけでかんたんに倒れてしまった。