やさしく包むエメラルド
積極的に死にたいわけじゃないので、無難な会話(ラ・フランスとキャラメルのケーキを食べ損ねた怨みつらみを含む)を心掛け、予定通り7時半に宿に着いた。
「啓一郎さん、お疲れ様でした。お腹すきましたね」
「わかってたことだけどギリギリだな」
時計を見ながら残念そうに言う。
温泉の醍醐味のひとつとして、まずひと風呂浴びてから食事する流れがあるけれど、今回それは諦めなければならない。
山の中はひときわ冷え込み、吐く息が白く夜空に上っていく。
「寒い! 温泉がますます楽しみです。わたし多分おばさんより満喫する自信ありますよ」
「それでいいよ。俺や父さんに、それはしてあげられないから」
この家族にはこの家族の素敵な雰囲気があると思うのだけど、中にいるとその価値は見えにくいのかもしれない。
おばさんがお手洗いに行っている間に、用意しておいたケーキを旅館の人に渡した。
啓一郎さんは宿泊の手続きを終えて、あとは案内を待つだけ。
「啓一郎さん、これ」
封筒を差し出すと、察した啓一郎さんはそれを押し戻した。
「俺が頼んで来てもらったんだからいらない」
「そういうわけにはいきません。わたしは自分の意志で来たんですから」
まったく相手にしようとしない啓一郎さんの荷物の上に封筒を乗せる。
「わたし図々しい性格なので、ごちそうになるときは遠慮しません。今回は受け取ってもらわないと、わたしが楽しめないんです」
封筒を拾い上げ、尚も納得しない啓一郎さんに笑顔を向けた。
「そのお金で、今度は何か豪華な食事をごちそうしてください。今回の打ち上げとして。そうだなあ、あんこう鍋とかいいですね。だから今日は、一緒におばさんをお祝いしましょう」
啓一郎さんはふっと笑って、封筒をポケットにしまった。
「あんこう鍋、結構高いよ。ふたり分だとこれで足りるかな」
「足りない分は奢ってください。そのときは遠慮しませんから」
結局わたしとおばさんが相部屋となり、8畳ほどの和室に荷物を運び込んだ。
「真っ暗で景色なんて見えませんね」
旅館は山の中腹にあるから窓からは山の木々が見えるはずだった。
今は外が暗いせいで、窓ガラスに映った室内の様子しか見えない。
温泉地なので他にも温泉宿はたくさんあるけれど、それぞれ距離があって喧騒は届いてこない。
「本当にしずかでいいところね」
荷物は丸投げしていたわたしに対して、おばさんはコートをハンガーにかけ、ボストンバッグから貴重品だけを小さなポーチに詰め替えている。
「温泉の他にはアミューズメントないですけどね」
おばさんもわたしの隣に並んで、真っ暗な山なのか、部屋の中なのかを眺めた。
「温泉地って賑やかだとゴミゴミしてるところも多いから、わたしはこういうところの方が好きよ」