やさしく包むエメラルド


ペッタン、ペッタン。
素足に吸い付くスリッパの音が、真夜中に向かう廊下に響く。
あと30分もせずに日付は変わるけれど、深夜2時まで入浴は可能だった。

『先に寝ててください。わたし、貸し切り風呂の方も入ってきたいので』

おばさんにはそう言って、ひとり外に出た。
それも嘘ではないけれど、一番の理由は、とにかくひとりになりたかった。

貸し切り風呂は、白木のうつくしい脱衣場と、明るい照明のためにひとりでも怖くはなかった。
きっちりとした長方形の浴槽は、大浴場と違って趣には欠けるものの、内湯も露天も広々として清潔感がある。
頭も身体もさっき洗ったばかりなので、さっと流すだけにして、早々に露天風呂に移動した。

貸し切りの露天風呂は、どういう理由なのかわからないけれど、翡翠のように澄んだ青色をしていた。
大浴場とは違って明るいライトが要所要所に設置されていて周りもよく見える。
でも高い柵がぐるりとめぐらされて庭木の類いもないため、柵で切り取られた四角い夜空を、湯けむり越しに見上げるしかなかった。
ほうっと息を吐くと、星々はすぐに滲む。
浴槽内にタオルを入れてはいけない、というのは常識だけど、涙が入るのはマナー違反だろうか。

モタモタしてないで告白してしまえばよかった。
お風呂上がり、変な保身に走らずに想いを告げていたら、と思う。
結果的にあれが最後のチャンスだった。

『小花ちゃんが抱えてる奨学金だって、お嫁に来てくれるなら払ってあげられるもの』

おばさんの気持ちは純粋な善意だし、わたしの啓一郎さんへの気持ちだって純粋なものだ。
それでもあの言葉で、鍋の中には塩のひとかけらより小さな“打算”が入り込んで、元の味には戻らない。
わたしがどんなに「お金じゃない」と訴えて、啓一郎さんがそれを信じてくれたとしても、舌の奥に残るしょっぱさはずっと後を引くだろう。

『“自分にはお金じゃない価値がある”って堂々と言える。俺には無理だな』

啓一郎さんにはお金じゃない価値がある。
それを伝えたかった。
お母さん想いの啓一郎さんなら、おばさんのためにわたしと結婚するかもしれない。
本人も言っていたようにそのうち“情”が芽生えて家族になれるかもしれない。
でもわたしが望むのは“情”ではなく“恋”だし、もしうまく行かなくなったときは必ず「お金のために結婚した」という言葉が頭をよぎるだろう。
もう、わたしの気持ちは、啓一郎さんに真っ直ぐは届かない。

無理だと理屈でわかっていても、啓一郎さんの過去も未来もすべてがほしかったのに、ただ一片の今さえ思うようにはならないものだ。

美肌にも効果があるという温泉に、塩辛い涙が落ち続ける。
今夜の温泉は、ずいぶん肌に悪そうだ。



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