やさしく包むエメラルド

「先週までは雪なかったのに」

3月に入ってから雪は徐々に解け、ここ一週間は自転車で通勤できるほどになっていたのに、外は10cmほど積もっている。
4月半ばまでは、冬をぶり返すことがあるので、冬物のコートをしまってはいなかったけれど、ここまで積もると少し気持ちが落ち込んだ。
アパートの前にある駐車場には、誰かの足跡がついている。
ふらふらとした足取りで、それをなぞるようにわずかな積雪を踏み越えて通りに出た。
その途端、15m先にいるひとと視線が合い、心臓がキュッと発作の一歩手前まで縮まる。

「おはようございます」

出勤経路とは反対方向なのに、気づいたら宮前家の前まで来ていた。

「おはよう」

啓一郎さんは自宅前の雪をザックザックと掻いている。
わたしならもっと積もるまで待つか、運良く解けることに賭けて雪掻きなんてしない量だけど、マメなひとだ。
気温が高くなってからの雪は重く、大きな塊を投げ捨てるとビシャッと水の音がした。

「雪掻き、大変ですね」

「うん。でもまあ、こんなものでしょ」

啓一郎さんとの関係はあの温泉以降も特に変わっていない。
態度にこそ出さないけれど、それでもお互いの中には確かにわだかまりがあって、あの夜の話題には触れないし、一緒に出かけることもなかった。
当然ココアもあんこう鍋も実現していない。
こうして道で会えば挨拶する程度のお隣さん。

「……久しぶりだな」

「あ、そうですね。何ヵ月ぶりかな」

以前はわたしが合わせていたせいもあって、週二回の家庭ゴミの日には会っていた。

「雪降ってから徒歩通勤にしたので、この時間にはもう家を出るんです」

「徒歩……かなり遠いよね?」

「でも1時間はかからないので大丈夫ですよ」

道の状態にもよるけれど、だいたい45分程度。
大変だけど歩けない距離じゃない。
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