やさしく包むエメラルド


昼間たくさん寝たせいで、夜はなかなか寝付けなくなった。
だけど、元気になったからと言ってお世話になっている身でふらふら遊び歩くわけにもいかない。
ひたすら寝返りを打って、眠気が訪れるのを待つ。

「トイレ行こう」

宮前さんの家のトイレは一階にしかない。
朝が早いこの家は夜も早いようで、おじさんとおばさんも自室に引き上げ、廊下は小さな電気がひとつついているばかり。
まるで、あの夜に戻ったみたい。

トイレを済ませて部屋に戻る途中、ベランダから月が見えた。
細い細い月は明るさもなく、今は街灯の灯りにさえ負けてしまいそうに儚い。
それでも懸命に庭を照らしている。
しばらくそうして、雲から出たり入ったりを繰り返すメロンの皮のような月を、ぼんやりと見ていた。

「━━━━━▲◇*△」

ひそやかな人の声がした。
誰かと会話していて、笑っているようだ。
声はドアの向こう、啓一郎さんの部屋から聞こえる。

「━━━━━うん。そうか。よかったな」

啓一郎さんが電話しているらしい。
ときどき笑いながら、主に相手の話に相づちを打っている。
さすがに寒くなってきたので帰ろうとしたわたしを、その言葉が引き留めた。

「瑠璃。じゃあ週末そっちに行くから」

月は完全に雲に隠れ、廊下は一層暗く寒くなった。
闇が濃く、まるですべての色を失ったよう。

まだぬくもりの残る布団に潜り込んで、ひたすら眠くなることを願ったけれど叶わず、無情な夜は長かった。
ついさっき、すぐそばにあると思えたぬくもりが、一気に遠ざかってしまった。
こんな弱々しい月夜では、もう見えないくらい遠い。

瑠璃さん。
カフェに啓一郎さんと何度も行ったひと。
花柄が好きだけど、花柄なら何でもいいわけじゃないひと。
一度は啓一郎さんが生涯愛すると決めたひと。
顔を赤くしてきれいな女性にプロポーズする啓一郎さんの姿を何十回も妄想したせいで、その映像は劇場公開できそうなまでに完成された。

わたしの気持ちが変わらないからと言って、世の中が待っていてくれるわけじゃない。
啓一郎さんの時間だって流れているのだ。



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