ぼくたちだけの天国

「かーやのさんっ」
「…?」
 振り返る茅野さんが、小さく微笑んでくれる。それだけで俺は幸せな気分になれる。簡単でいいでしょ?
「いま帰り? 一緒に帰ろ」
「…」
 こくんとうなずいてくれる茅野さんは、明らかに笑ってた。そりゃそーだよね。
 茅野さんちと俺んちって、正反対。校門を出て、いきなり左右に別れなくちゃいけないんだ。
 だから一緒に帰ろって言ったって、数十メートルもないんだよ。一緒に帰るもへったくれもないよねえ。
 もちろん、家まで送りたいなって思ったさ。いつだって思ってたさ。
 だけど、どうしてもその一言が口に出せなかった。断られるのが怖くて。俺なんかどーせ。
 あ、それでその日なんだけど、さ。
「茅野さんは、冬休みは旅行とかそーゆーの行くの?」
「…」
 ふるるる。小さく首を横に。それから小さく、
「トレーニング…します」
「遊びに行ったりはしないの?」
「特には…」
「じゃ、俺と一緒だ。クリスマスは?」
「ケーキを…家で食べます」
 アットホームでいいなあ。
「あ、じゃーさ茅野さん」
 何にも考えず、口に出してた。断られたらどうしようなってネガティブな感情は、このときの俺のハートにはなかったんだ。
 勢い、なのかな?
「大晦日の夜、一緒に初詣に行かない?」
「…」
 こくん。これっておっけーだよね。
 それにしても…即OKしてくれたよ、このお嬢さん。
 やばいくらい嬉しい気持ちをぐっと抑えながら、
「じゃあ、柳原神社にしよーか。あそこ、おっきいし、境内で甘酒とかもただで飲ませてくれるし、夜店も出るし。茅野さん、場所知ってる?」
 こくん。できれば声で返事して欲しいな。茅野さんの声、スウィートだし。
「時間、どうしよ。並ぶ時間とかもあるし、十一時半とかでいい?」
「…うん。だいじょぶ」
 校門前で打ち合わせ。俺たちの周りを通り過ぎて行く柳原中の生徒諸君よ、俺はいまこの茅野さんとでででデートの約束をしてるんだぞ。羨ましいか。
 …って、でっかい声で叫びたかった。柳原中の正門で、愛を叫ぶ、だ。

 大晦日。
 時間前までガキ使を観て、約束の10分くらい前に待ち合わせ場所にした柳原中の正門に向かった。
 服装は、スリムのブラックジーンズに、背中にでっかいストーンズのワッペンを縫いつけてあるライダースジャケット。俺の私服の基本はロックンロールだから、こんなんなっちゃう。なるべくカッコいいの選んだつもりだけど、変じゃないかな、とか気にしてたら、茅野さんが小走りで来てくれた。「…待たせちゃった?」だって!
 なんて優しいんでしょう!
 ルーズフィットのブルージーンズに、背中と胸元に阪神タイガースのロゴが入ってる真っ白いブルゾン。シンプルなファッションが素敵だー!
「あ…か、やのさん」
 いかん、声うわずった。
「阪神ファン、なの?」
「…」
 こくん。洗いたて、なのかな…揺れた髪から優しい香りが届いた。
 …俺、晩御飯から家を出るまでずっとガキ使観てて、フロ入んないで来ちゃったぞ。臭くないだろな。
 せっかく茅野さんに逢えたのに、俺、そんなことを考えてた。ばかみたいだ。

 柳原中から歩いて10分くらいかな。
 柳原神社は、凄い混んでた。同じ学校の人もたくさんいた。「よー秋弥」なんて声をかけてくれる友達もいたけど、ごめんいまお前の相手なんかしてらんねえすぐあっち行け話しかけてくんなそれどころじゃねーオーラを出してる俺につきまとう友達はいなかったからよかった。
「凄い人だねー」
 こくん。うなずいて、焚き火を指差す茅野さん。少し暖まって行こうって意思表示だと思って、自然とそっちに流れる。
 茅野さんは、隣を歩いてくれる。そんな小さなことが、とても嬉しかった。
 二人で焚き火を見つめてた。顔が熱くて、風は冷たくて、集まった人の賑やかな声がちょっとうるさくて、それでもなんだか楽しくて、二人でくすくす笑ってた。
 茅野さんが言ってくれた。
「…神崎くん」
「なーに?」
「誘ってくれて…ありがとう」
「え、あ、う、うううん、そんな」
「…嬉しかった」
 消え入りそうな、小さな声。
 うつむき加減で焚き火を見つめる茅野さんの横顔が、淡い紅に染まっていたのはたぶん、炎のせいだ。
 でも、このとき思ったんだ。
 茅野さん、なんだか淋しそうだな…って、さ。
 だから、なるべく明るく言った。大切なのは「唇に歌を、心に太陽を」だと思う俺は、常に明るく生きたいと思ってるんだ。
 そんな気持ちを込めた明るい声で、
「なんか食べよっか。屋台、いっぱいあるよ」

 神社の境内に隣接する児童公園。いつもだったら、もうすぐ日付が変わるこんな時間には、人なんていない。
 でも今日は特別な日。
 家族連れとか、恋人同士とか、友達と一緒の人とか、たくさんの人が集まってた。
 公園の外周には屋台がいくつも出てるし、自治会の人たちが甘酒とか豚汁なんかのサービスをしてるテントもあるし、まるで夏祭りみたいだね。
 茅野さんと一緒に屋台を回って、ときどき二人で笑ったりして。
 空いたベンチを見つけて、並んで座って。
 焚き火の爆ぜる音と喧騒と除夜の鐘の音が混ざって生まれる、一年の終わりの空気。
 茅野さんの買ったチョコクレープとミルクティー。
 俺の買った磯辺巻きとコーラ。
 冬の星座が広がる夜空と、冷たい風。
 両手でクレープを持って、ちま、ちまって感じで食べる茅野さん。たまに、自販機で買ったミルクティーをくぷんって小さく飲んで…なんか、かわいい。どっちかって言うと綺麗、美人なタイプの茅野さんなんだけど、今はかわいい、がいちばん似合ってる。
 そんなことをなんとなく思いながら見惚れてると、視線が重なって、「…食べたい?」って微笑う大好きな女の子。
 …。
 うん、悪くないね。
「神崎くん」
「はい?」
「時間…」
「え?」
「…へいき?」
「時間…? あ、あー、うん、時間ね。うん、平気だよ。うち、門限なんかないし。だいたい、父さんは友達との飲み会に行ってるから、どーせ帰ってこないし。お母さんはいないし」
「…そう。一緒だね」
「茅野さんは大丈夫なの?」
 こくん。クレープの包み紙を丁寧にたたみながらうなずく茅野さんの視線は足元。
 …。
 どうしてだろう。
 どうして茅野さんは、こんなにも悲しそうに微笑うんだろう。

 カウントダウンが始まる。茅野さんと一緒にコール。
 ハッピーニューイヤー! って拍手して、茅野さんとハイタッチ。それから二人でうんと笑って、初詣の行列に並んだ。
「寒くない?」
「へいき。…神崎くんは?」
「俺も大丈夫」
 このときの俺、下心炸裂中だった。絶対ぜぇったい茅野さんには言えないけど、どうにかして手をつなげないかなーとか考えてた。そんな度胸もないくせに。
 そんな下劣な企みを打ち砕いたのは、
「よ、神崎」
 俺より頭いっこくらい背が高い、昭和の不良だった。
 白と赤のスカジャンと、ブルージーンズ。セピア色の長い髪をウルフカットに決めたその人は、
「あ…やさき、くん」
 綾崎神威くん。同級生で、柳原中ではかなりの有名人。
 不良だからってこともあるけど、この綾崎くん、お母さんが歌手で女優の綾崎美沙さんで、お父さんがメジャーリーガーの草壁悠太さんなんだ。そりゃ有名にもなるね。
 ちなみに名字が違うのは、離婚してるからだ。何年か前にワイドショーで騒いでたっけ。
 俺はこの綾崎くんと、そう親しいわけじゃない。
 ただ、綾崎くんの双子のお姉ちゃんが、俺と同じ軽音でユニットを組んでる綾崎沙弓ちゃんだから、その関係で知ってるって感じなんだ。
 正直、ちょっと苦手な同級生だ。
 ケンカとかの噂もよく耳にするし、学校じゃみんなからゴッドファーザーみたいな扱いされてる人だから、俺は自分から話しかけたりはしないんだけど、どうしてかな、綾崎くんはよく俺に声をかけてくれる。まあ、おしゃべりするわけでもなく、「よ」「やあ」くらいの感じだけど。
「神崎も初詣?」
 列の横に立つ綾崎くんは、俺の隣にチラッと視線を移して、
「茅野と一緒なんだ」
「あ、うん。綾崎くんは、誰かと?」
「あー、沙弓が公園にいる。腹減ったって、振る舞いの豚汁食ってるよ。そんでも足りねーから、焼きそばとたこ焼き買ってこいってさ」
「あー。沙弓ちゃん、あんなに細いのに食べるもんね」
 そうなんだ。俺の相方の沙弓ちゃんはたぶん、俺の倍は食べる。チビの俺よりもチビで細い女の子なのに、さ。
 部活のときも、しょっちゅうおかし食べてる。俺も会うたんびに、チョコだのクッキーだのもらうんだ。
「なー。あの身体のどこに入んだかな。神崎にも迷惑かけてんじゃね? あの大食い」
「そんなことないよ。逆にいっつもおかしもらってる。たまにコンビニに買い出しさせられるけど」
 部活中、沙弓ちゃんがトランプ勝負仕掛けてきたときは要注意。だいたい負けた方がコンビニに買い出しに行くことになるんだ。
 俺、その勝負で沙弓ちゃんに勝ったことない。
 それを綾崎くんに言うと、高らかな笑い声。周囲の人が一瞬反応するくらいに豪快に笑った。
「それな、絶対勝負しない方がいーぞ」
「え、なんで?」
「沙弓、ずるすんだよ。しかも見抜くの超難しいレベル」
「うそー。俺ぜんっぜん気づかなかった」
「オレもよくやられんだ。あいつくらいだぜ、オレパシリにすんの」
 苦笑いして、長い前髪に手を入れた綾崎くん。じゃ、沙弓待たせてっから、なんて言ってから、思い出したように、
「じゃな、茅野」
「…」
 こくん。茅野さんは、小さくうなずいた。別に怖がってる感じはしない。
 行列に逆行するみたいに去って行く綾崎くん。スカジャンの背中は、芸者さんの刺繍だった。
「茅野さん、綾崎くんと知り合い?」
 こくん。俺と同じように綾崎くんの背中を見ていた茅野さんは、ぽつりと、
「野球…仲間」
「そーなの?」
「リトルのチームで…一緒だったの」
「へえ、綾崎くん、野球やってたんだ」
 こくん。そうか、綾崎くんのお父さんはメジャーリーガーだったっけ。かなり凄いピッチャーだったと思う。
 そう言うと、茅野さんはもう一度こくん。
「綾崎くんもピッチャー。速くて…重い」
「対戦したことあるの?」
 こくん。何度か…って答えて、ちょっとだけ間を空けて、
「一度も打てなかった」
「えー、そんなに凄いの?」
 俺は野球のことは、そんなに詳しくない。それでも、いま隣にいる華奢な女の子が、とんでもない実力のあるバッターだってことは分かってるつもりだよ。校内でも噂になってるくらいだもん。
 その茅野さんが打てないピッチャー。それってかなり凄いってことなんじゃない?
 そう聞くと、茅野さんはこくん。綾崎くんが去った方に眼差しを向けて、
「凄い人だよ」

 初詣。お賽銭は奮発して100円。
 お願いするのはもちろん、茅野さんのこと。
 今よりもっと、仲良くなれますようにって、さ。
 それから、なんとなく帰路についた。俺たちがまず向かうのは、柳原中学校。
 本当は、まだ帰りたくない。でも、茅野さんがちっちゃなあくび、何度かしてたから、さ。
 きっと眠たかったんだね。
 俺もだけど。
「…神崎くん」
「はい?」
「三年生になったら…」
 歩きながら、茅野さんが小さな声で、
「同じクラスになれたら…いいね」
「…うん」
 嬉しかった。
 茅野さんも、同じこと思っててくれたんだ。
 100円のお賽銭のご利益かな。
「あたし…ね」
「うん」
「…」
 俺たちの歩く音だけが、深夜の住宅街に響く。
 茅野さんの言葉は、出てこない。
 出てこないまま、柳原中の正門前に来た。
 そこは、俺たちがいつも別れる場所。
 なんとなく立ち止まって、向かい合って。
「…送るよ」
 初めて言えた。
「もう遅いし」
「…でも、神崎くんが大変」
「俺なら平気。…行こ?」
 こくん。それから小さく、
「ありがとう…」
 風がひとつ。
 とても冷たい風が吹いて。
 俺たちは黙ったまま歩き始めたんだ。
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