ぼくたちだけの天国
Chapter 2 藤波紅葉
誰からも好かれているんだけど、そんなことには気付きもしないで、いつだって自然体のまんまでいるから、余計にみんなの人気者になっちゃう人って、仲間内に一人はいる。
それは例えば、飲み会なんかをやったときに、特別おもしろいことができるとか、すべらない話ができるってわけじゃないのに、とにかくその人がいなくちゃ話にならないような、そういう人のことだ。
藤波紅葉は、そんなタイプの女の子だ。
ああんと大きな口を開けて、ケチャップと、その倍くらいのマスタードを塗りたくったアメリカンドッグにかぶりつく紅葉。女の子も14歳になれば、もう少しお上品に物を食べたっておかしくないけれど、紅葉にはそういう女らしさが欠落している。ついでに言えば、シャギーの入ったショートヘアも、もっしゃもしゃに乱れている。
でも、そんな紅葉を見て、眉をひそめるような人間は、彼女の周囲にはいない。
「かれー! 鼻もげる!」
「カラシかけすぎだばーか」
「いーじゃぇーか。この方がうめんだって。やってみ」
「やだよばか」
柳原中に隣接する、柳原市民公園。規模は大きくて、年に何度かプロ野球の二軍戦が行われるレベルの、ナイター設備を完備したベースボール・スタジアムとか、天然芝の陸上競技場とか、芝のテニスコートなんかがある。観客席つきの体育館だってあって、柳原スポーツセンターと名付けられている。ちっちゃなプロレス団体がタイトルマッチを開催するくらいの大きさがあって、温水プールも併設されているくらいだ。
そのスポーツセンターには、オープンカフェを展開している喫茶店もくっついているし、公園の外周にはジョギングコースだってある。ちゃあんと距離が掲示してあるし、舗装だってキレイだ。だだっ広いフリースペースの芝だって、しっかり手入れされている。
おまけに何箇所かある公衆トイレなんか、「ここいくら?」って聞きたくなるくらいキレイだ。
放課後、そんな立派な市民公園の一角にある、小さなオープンカフェに、紅葉の姿があった。学校帰りに「なんか食うべ」と幼なじみを誘ってやってきた。
「けど紅葉、それ美味そうだな」
「んまいよー。食ってみ?」
答え、かじりかけのアメリカンドッグを相手の口元に突き出す紅葉。見方によっては、「はいあーん」の萌え気味な光景なのに、登場人物が紅葉だとそうはならない。かじりかけのパンからはマスタードが垂れたし。
でも、そんなことなんかなんでもないよ、みたいに平然とした顔で、突き出されたアメリカンドッグをかじったのは、神崎秋弥だ。相手はかれこれ14年来の付き合いになる幼なじみだから、これくらいなんでもない。お互いの食べ残しを貰ったりすることなんて、いつものことだ。
「あ、辛くても美味いかも」
「だろー」
得意げな顔でへへへと笑い、コーラを一口。怪獣みたいなげっぷをしてから、
「そいやお前、今日部活は?」
「やーすみ。沙弓ちゃん、歯医者だから部活休むって。だから俺もつられて、今日はサボっちゃおーと思ってね」
「さゆみん、おかしばっか食ってて虫歯なったか」
「なんか、なりやすい体質らしいよ。沙弓ちゃん、おかし食べたあととか、よく歯磨きしてるもん。なのに油断するとすぐなっちゃうみたい」
「そーなんだ。そりゃーかわいそーだな…」
まるで奥歯で銀紙を噛んだときみたいな顔でうなずく紅葉。彼女は医者嫌いのこんこんちきみたいなハートの持ち主だから、健康診断でさえ嫌がる。歯医者なんて、考えただけで気が変になりそうだ。
「紅葉は部活どした?」
「次の舞台決める会議だから、逃げてきた」
そう答える紅葉が入っているのは、芝居部。演劇部と違って、女の子だけで構成されている、さながら宝塚歌劇団のような、市内でもかなり有名なクラブだ。年四回、春夏秋冬の季節ごとに舞台を披露するのだが、そのときは柳原中の生徒だけじゃなくて、一般のお客さんがたくさん来る。もちろん入場料を取られるけれど、下手な素人劇団なんかよりもお客さんが入る。
それまでは柳原中の体育館で公演していたが、数年前からは隣接する柳原市民公園のスポーツセンターで公演している。それでも毎回満員御礼になるのだから、人気はかなり高い。
紅葉はここで、男役、しかもアクション担当みたいな感じのポジションにいる。お芝居は特別に上手ってわけじゃあないけれど、とにかく動けるので重宝されている。
「いーの、それで」
「うん。どーせぼくに役がついても、飛んだり跳ねたりする男役だもん。なんだって一緒」
「たまには普通の役とかやってみたら? お姫様とは言わないけどさ」
「普通の役なんて似合わないよ。それにぼくがなりたいのは、役者ってよりは」
「ジャッキー・チェン」
「そゆこと」
今でもちっちゃい紅葉だけど、もっともっとちっちゃい頃、それこそ物心ついたかどうか怪しいくらいの頃から、彼女はジャッキー・チェンに憧れている。もう、熱烈に恋をしているレベルを通り過ぎて、神様みたいに崇拝しちゃっているくらいで、秋弥にとってのキース・リチャーズみたいなものだ。
紅葉は、小学校の頃は演劇クラブに所属していたんだけど、その頃から舞台の上で暴れ回る役ばかり演じていた。とんぼ返りなんかを連発するのはお手の物だし、高いところから飛び降りたり飛び落ちたりすることだって、なんでもない。
「でもさあ」
秋弥はイスに寄りかかって背をそらす。胸に溜まっていた息をふぅっと吐きながら、
「舞台での紅葉、ここんとこひどいことばっかやらされてるじゃん。エスカレートしてるよ」
前回の舞台では、3メートルくらいの高さから落とされるアクションをしていた。回を重ねるごとに、紅葉がこなすアクションの程度はひどくなっている。もはやスタントの域だ。
「一度派手なことすると、次はもっと派手なことしなくちゃ受けなくなっちゃうんだってさ。部長が言ってた」
「だからって、紅葉がそんなことばっかすんのは違うだろ。派手なアクションなんか、他の奴らはしちゃいないじゃんか」
「まあ、ぼくにはそれくらいしか取り柄ないし。演技力だけじゃ、舞台立てないもんなー」
「そんなことない」
秋弥は強めの口調で答える。彼は、幼なじみの紅葉が演技力の稽古に一生懸命なことをよおく知っている。家が隣同士で、おまけに屋根伝いに部屋が隣り合わせているから、毎日紅葉が演技のトレーニングを頑張っている声がよく聞こえるからだ。
確かに他の芝居部の人間に比べたら、上手とは言えないかも知れない。
だけど紅葉の芝居には、他の誰にも真似できないものがあると、秋弥は感じている。
それは共感力だ。
紅葉は、演じる人物の感情を伝えることがとても上手だ。それはおそらく、本人は意識していないのだろうけれど、観ている者に喜怒哀楽を伝える力が、とてつもなく高い。
演技から表情が伝わる芝居。
紅葉には、その力がある。
秋弥はそれを知っている。だからこそ、今の紅葉がアクション担当みたいになっていることが歯がゆくってしょーがない。
「俺、紅葉はもっと普通の芝居した方がいいと思う。ジャッキーだって、アクションばっかじゃないじゃん」
「そりゃー、ジャッキー様は世界的スーパースターだもん、なんだってできるよ。でもぼくは」
「俺の中では、紅葉だって負けてないよ」
「…ありがと。あきやんはいっつも、ぼくのこと嬉しがらせてくれる」
テレ笑いで答える紅葉。心がとてつもなく暖かな気持ちで満たされて行く。自分が一生懸命に取り組んでいることを誰かに認めてもらえる。
それは、いつだって嬉しいことだ。
紅葉は嬉しい気持ちをぺったんこな胸の奥の方に大事にしまいながら、あちち、あちちなんて言いながらたこ焼きを食べる幼なじみを、なんとなく見つめてみる。
神崎秋弥、彼はまるで女の子だ。制服こそ男の子のそれだけど、ふわっとした柔らかな長めのショートヘアとか、黒目がちな下がり気味の大きな眼とか、ルージュで彩ってるわけでもないのに薄桃色に濡れた感じで艶めく薄い唇なんかは、まるで女の子のパーツだ。
色白で華奢で、よく中性的、なんていうけれど、秋弥の場合は女の子にしか見えない。
極めつきはその声。変声期なんか犬に食わせたってくらいの、透き通った高さがある。紅葉はこの声なら、アニメの主人公の妹とか、主人公と一緒にいる珍獣の声ができそうだな、なあんて思っている。
「ん? たこ焼き食うか?」
「くー」
爪楊枝に刺したたこ焼きを、秋弥が差し出す。あちーよって忠告してくれたのに、構わずに勢いよくかぶりついた紅葉は、池の端で餌をねだる錦鯉みたいに口を開閉させていた。
「あひ、あひ」
「ばあか」
それは例えば、飲み会なんかをやったときに、特別おもしろいことができるとか、すべらない話ができるってわけじゃないのに、とにかくその人がいなくちゃ話にならないような、そういう人のことだ。
藤波紅葉は、そんなタイプの女の子だ。
ああんと大きな口を開けて、ケチャップと、その倍くらいのマスタードを塗りたくったアメリカンドッグにかぶりつく紅葉。女の子も14歳になれば、もう少しお上品に物を食べたっておかしくないけれど、紅葉にはそういう女らしさが欠落している。ついでに言えば、シャギーの入ったショートヘアも、もっしゃもしゃに乱れている。
でも、そんな紅葉を見て、眉をひそめるような人間は、彼女の周囲にはいない。
「かれー! 鼻もげる!」
「カラシかけすぎだばーか」
「いーじゃぇーか。この方がうめんだって。やってみ」
「やだよばか」
柳原中に隣接する、柳原市民公園。規模は大きくて、年に何度かプロ野球の二軍戦が行われるレベルの、ナイター設備を完備したベースボール・スタジアムとか、天然芝の陸上競技場とか、芝のテニスコートなんかがある。観客席つきの体育館だってあって、柳原スポーツセンターと名付けられている。ちっちゃなプロレス団体がタイトルマッチを開催するくらいの大きさがあって、温水プールも併設されているくらいだ。
そのスポーツセンターには、オープンカフェを展開している喫茶店もくっついているし、公園の外周にはジョギングコースだってある。ちゃあんと距離が掲示してあるし、舗装だってキレイだ。だだっ広いフリースペースの芝だって、しっかり手入れされている。
おまけに何箇所かある公衆トイレなんか、「ここいくら?」って聞きたくなるくらいキレイだ。
放課後、そんな立派な市民公園の一角にある、小さなオープンカフェに、紅葉の姿があった。学校帰りに「なんか食うべ」と幼なじみを誘ってやってきた。
「けど紅葉、それ美味そうだな」
「んまいよー。食ってみ?」
答え、かじりかけのアメリカンドッグを相手の口元に突き出す紅葉。見方によっては、「はいあーん」の萌え気味な光景なのに、登場人物が紅葉だとそうはならない。かじりかけのパンからはマスタードが垂れたし。
でも、そんなことなんかなんでもないよ、みたいに平然とした顔で、突き出されたアメリカンドッグをかじったのは、神崎秋弥だ。相手はかれこれ14年来の付き合いになる幼なじみだから、これくらいなんでもない。お互いの食べ残しを貰ったりすることなんて、いつものことだ。
「あ、辛くても美味いかも」
「だろー」
得意げな顔でへへへと笑い、コーラを一口。怪獣みたいなげっぷをしてから、
「そいやお前、今日部活は?」
「やーすみ。沙弓ちゃん、歯医者だから部活休むって。だから俺もつられて、今日はサボっちゃおーと思ってね」
「さゆみん、おかしばっか食ってて虫歯なったか」
「なんか、なりやすい体質らしいよ。沙弓ちゃん、おかし食べたあととか、よく歯磨きしてるもん。なのに油断するとすぐなっちゃうみたい」
「そーなんだ。そりゃーかわいそーだな…」
まるで奥歯で銀紙を噛んだときみたいな顔でうなずく紅葉。彼女は医者嫌いのこんこんちきみたいなハートの持ち主だから、健康診断でさえ嫌がる。歯医者なんて、考えただけで気が変になりそうだ。
「紅葉は部活どした?」
「次の舞台決める会議だから、逃げてきた」
そう答える紅葉が入っているのは、芝居部。演劇部と違って、女の子だけで構成されている、さながら宝塚歌劇団のような、市内でもかなり有名なクラブだ。年四回、春夏秋冬の季節ごとに舞台を披露するのだが、そのときは柳原中の生徒だけじゃなくて、一般のお客さんがたくさん来る。もちろん入場料を取られるけれど、下手な素人劇団なんかよりもお客さんが入る。
それまでは柳原中の体育館で公演していたが、数年前からは隣接する柳原市民公園のスポーツセンターで公演している。それでも毎回満員御礼になるのだから、人気はかなり高い。
紅葉はここで、男役、しかもアクション担当みたいな感じのポジションにいる。お芝居は特別に上手ってわけじゃあないけれど、とにかく動けるので重宝されている。
「いーの、それで」
「うん。どーせぼくに役がついても、飛んだり跳ねたりする男役だもん。なんだって一緒」
「たまには普通の役とかやってみたら? お姫様とは言わないけどさ」
「普通の役なんて似合わないよ。それにぼくがなりたいのは、役者ってよりは」
「ジャッキー・チェン」
「そゆこと」
今でもちっちゃい紅葉だけど、もっともっとちっちゃい頃、それこそ物心ついたかどうか怪しいくらいの頃から、彼女はジャッキー・チェンに憧れている。もう、熱烈に恋をしているレベルを通り過ぎて、神様みたいに崇拝しちゃっているくらいで、秋弥にとってのキース・リチャーズみたいなものだ。
紅葉は、小学校の頃は演劇クラブに所属していたんだけど、その頃から舞台の上で暴れ回る役ばかり演じていた。とんぼ返りなんかを連発するのはお手の物だし、高いところから飛び降りたり飛び落ちたりすることだって、なんでもない。
「でもさあ」
秋弥はイスに寄りかかって背をそらす。胸に溜まっていた息をふぅっと吐きながら、
「舞台での紅葉、ここんとこひどいことばっかやらされてるじゃん。エスカレートしてるよ」
前回の舞台では、3メートルくらいの高さから落とされるアクションをしていた。回を重ねるごとに、紅葉がこなすアクションの程度はひどくなっている。もはやスタントの域だ。
「一度派手なことすると、次はもっと派手なことしなくちゃ受けなくなっちゃうんだってさ。部長が言ってた」
「だからって、紅葉がそんなことばっかすんのは違うだろ。派手なアクションなんか、他の奴らはしちゃいないじゃんか」
「まあ、ぼくにはそれくらいしか取り柄ないし。演技力だけじゃ、舞台立てないもんなー」
「そんなことない」
秋弥は強めの口調で答える。彼は、幼なじみの紅葉が演技力の稽古に一生懸命なことをよおく知っている。家が隣同士で、おまけに屋根伝いに部屋が隣り合わせているから、毎日紅葉が演技のトレーニングを頑張っている声がよく聞こえるからだ。
確かに他の芝居部の人間に比べたら、上手とは言えないかも知れない。
だけど紅葉の芝居には、他の誰にも真似できないものがあると、秋弥は感じている。
それは共感力だ。
紅葉は、演じる人物の感情を伝えることがとても上手だ。それはおそらく、本人は意識していないのだろうけれど、観ている者に喜怒哀楽を伝える力が、とてつもなく高い。
演技から表情が伝わる芝居。
紅葉には、その力がある。
秋弥はそれを知っている。だからこそ、今の紅葉がアクション担当みたいになっていることが歯がゆくってしょーがない。
「俺、紅葉はもっと普通の芝居した方がいいと思う。ジャッキーだって、アクションばっかじゃないじゃん」
「そりゃー、ジャッキー様は世界的スーパースターだもん、なんだってできるよ。でもぼくは」
「俺の中では、紅葉だって負けてないよ」
「…ありがと。あきやんはいっつも、ぼくのこと嬉しがらせてくれる」
テレ笑いで答える紅葉。心がとてつもなく暖かな気持ちで満たされて行く。自分が一生懸命に取り組んでいることを誰かに認めてもらえる。
それは、いつだって嬉しいことだ。
紅葉は嬉しい気持ちをぺったんこな胸の奥の方に大事にしまいながら、あちち、あちちなんて言いながらたこ焼きを食べる幼なじみを、なんとなく見つめてみる。
神崎秋弥、彼はまるで女の子だ。制服こそ男の子のそれだけど、ふわっとした柔らかな長めのショートヘアとか、黒目がちな下がり気味の大きな眼とか、ルージュで彩ってるわけでもないのに薄桃色に濡れた感じで艶めく薄い唇なんかは、まるで女の子のパーツだ。
色白で華奢で、よく中性的、なんていうけれど、秋弥の場合は女の子にしか見えない。
極めつきはその声。変声期なんか犬に食わせたってくらいの、透き通った高さがある。紅葉はこの声なら、アニメの主人公の妹とか、主人公と一緒にいる珍獣の声ができそうだな、なあんて思っている。
「ん? たこ焼き食うか?」
「くー」
爪楊枝に刺したたこ焼きを、秋弥が差し出す。あちーよって忠告してくれたのに、構わずに勢いよくかぶりついた紅葉は、池の端で餌をねだる錦鯉みたいに口を開閉させていた。
「あひ、あひ」
「ばあか」