ぼくたちだけの天国
藤波紅葉がジャッキー・チェンに憧れたのは、大好きなお父さんがジャッキー映画のファンだったからだ。
 腕のいい大工さんだったお父さんは、紅葉のことをとにかくかわいがってくれる人だった。休みの日なんかは、よく一緒にDVDを観た。何度も観てる映画なのに、お父さんはいつだってうんと興奮して観てた。もちろん紅葉だってそうだ。二人してわあわあ騒ぎながら映画を観て、しょっちゅうお母さんに怒られてたのも、今じゃステキな想い出のひとつだ。
 お父さんが急ぎ足で天国に行っちゃって、もう何年にもなるけれど、紅葉は今でもお父さんが大好きだ。思い出して泣いちゃう夜もたくさんある。
 そんな紅葉だから、お父さんと交わした約束を、うんと大切にしている。
『お父さん、ぼくおっきくなったら、ジャッキーになりたい』
『お、そうかあ。そりゃあいいなあ』
『どしたらなれるかな?』
『身軽になる必要があるなあ。ジャッキーは飛んだり跳ねたり、宙返りしたりするからね』
『うん、がんばる。あとは?』
『お芝居とかやってみたらどうかな? カンフーのできる映画俳優になれば、ジャッキーみたいになれるかもね』
『じゃあ、学校に演劇クラブがあるから、入る』
『うん。まずはそこからだね。それじゃ、紅葉のいちばん最初のファンはお父さんだぞ。お父さんに、紅葉の出てるお芝居、見せてくれる?』
『うん。がんばる』
 ちっちゃい頃に、お父さんと交わした約束。
 演劇クラブに入ったのが小学校三年生の初夏。秋頃にはとんぼ返りができるようになって、初舞台に立てたのはその年の冬だった。
 台詞もろくにないような端役だったけど、お父さんは大喜びしてくれた。うんとうんと褒めてくれた。ジャッキー映画を観てるときよりも興奮してくれた。
 だから紅葉のハートに火がついた。よーし、もっともっとお父さんに喜んでもらうぞーって気合いが入った。
 それなのに。
 お父さんはそれから何日もしないうちに、死んじゃった。
 酔っ払って車を運転してた頭の悪い人が、仕事から帰ってくる途中、自動販売機で大好きなコーラを買おうとしてたお父さんを販売機ごとぺちゃんこにしちゃった。
 そして紅葉は、酔っ払いと車が大嫌いになった。
 お通夜の夜。
 わんわん泣きっぱなしの紅葉を、やっぱり泣いていた秋弥が一晩中抱っこしてくれた。一緒のベッドの中で、ずーっと抱っこしててくれた。泣き疲れて眠っても、だ。
 朝、目が覚めたら秋弥に抱っこされてた。
 その日から秋弥は、世界でいちばん大好きな男の子になった。それは今でも変わらない。
 もちろん、彼の想い人が他にいて、その子がすごーくステキな子だってことは分かってる。
 でも、それは問題じゃない。淋しいには淋しいけど、大したことじゃない。
 大事なのは、自分の気持ちだ。
 あの日、絶望に襲われていた自分を、ずっと抱っこしていてくれた秋弥。そのおかげで、救われたと思った。
 だから秋弥は恩人。そんな人にいつか恩返しができるように、いつまでも彼を見守っていよう。どんなときでも、彼の味方であり続けよう。
 恋人になれなくても、隣にいて味方になってあげよう。
 ジャッキー・チェンへの憧れから始まっている紅葉の想いはいま、そんな形を作っている。

「きりかんとはどーなんだ?」
 紅葉は、自分よりもちょっとだけ背の高い幼なじみに聞いてみた。中学校に入学した日、部屋に来た秋弥が言った「好きな子ができた」の言葉。
 それは紅葉の初恋を打ち砕く一言だったけど、それでも紅葉は言った。
『ぼくにできることがあれば、応援するよ』
 って。秋弥は嬉しそうに、ありがとうって言ってくれた。
 その日の夜、久し振りに泣いちゃったのは内緒の話だ。
 そしてそれ以来、紅葉はなるべく秋弥が好きな子とうまく行くように動いている。できることは少ないし、どうしたらいいか分からないことの方が多いけれど、せめて応援はする。今の紅葉のスタンスだ。
「あんまり進展はしてないんだ」
「でもさ、きりかんがいちばん仲いいのって、あきやんなんだし」
「そう見える?」
「見える見える。二人がつきあってるって思ってるやつ、けっこー多いんだぜ」
「ほんとに?」
「部活でもよく聞かれるもん。かなり噂にはなってる」
「茅野さん、有名人だもんねえ」
「あのなあ」
 確かに茅野霧香は柳原中学校の有名人だけど、そんな彼女よりも有名なのが神崎秋弥だ。
 女の子にしか見えない容姿と声。
 ギタリストとして昨年の文化祭を大いに盛り上げた実力。秋弥は自分がどれだけ話題になっている生徒なのか、ちっとも分かってない。
 そんな秋弥と、柳原中のホームラン・アーティスト茅野霧香の関係は、生徒たちの噂の中心にある。
 ちなみに、秋弥は霧香と一緒にいる以上に紅葉と一緒にいることが多いのだけれど、どういうわけかこっちはちっとも話題にもならない。紅葉にしてみれば腑に落ちないし、秋弥を通じて仲良くなった霧香と一緒にいると、その関係を噂されたりする。なんか世の中っておかしくないかって思う。
「あきやんも、もちっと意識した方がいいよ」
「意識ってなにさ」
「自分も有名人だってことをさ。たとえば大晦日、きりかんと初詣しただろ?」
「あー、うん、まあ」
 やや気恥ずかしそうにうなずく秋弥。その日あったことは、紅葉には報告してある。
「お前たちがそーゆーデートしてたってこと、凄い噂になってたんだぜ」
「うそ」
「神社で友達なんかに会ったろ? そいつらが話したんだと思うけどさ。三学期になって部活に出たら、もうみんな知ってたくらいだもん。びっくりしたよ」
「はー。おっかないな」
「まー、気をつけとけよ。きりかん困らせたくねーべ?」
「そだねー」
 おやつを食べ終わって、後片付け。会計はキャッシュ・オンだから、とっくに済んでいる。
「あきやん、これからどーすんよ」
「茅野さん観に行くつもりだけど。紅葉も行く?」
「ぼくはいい。帰るよ」
「そか。じゃ、また」
「あとでな」
 秋弥は学校に戻った。その背中をちょっとだけ見送ってから、紅葉はのんびりと歩き始めた。部活をさぼったから、時間はたくさんある。
 そして思った。アスレチック行こう、と。
 ここからそう遠くない場所に、広大な米軍基地がある。その米軍基地の脇にある小さな林の中に、フィールド・アスレチックの施設がある。
 紅葉はしょっちゅうそこに行く。休みの日にちょっと退屈になると、すぐにアスレチックに行く。たまには授業を抜け出して行っちゃうことだってある。
 もちろん、目標とするジャッキー・チェンに近づくためのトレーニングとして、アスレチックを利用する気持ちはある。だけどそれ以上に、身体を動かして遊ぶことが大好きなだけだ。
 そうと決めたらよし行こう。紅葉は迷わずアスレチックに向かう。学校帰りだから、まだ制服のまんまだけど、着替えに戻るのはめんどくさい。スカート姿でアスレチックなんかやったら、ぱんつ丸見えになっちゃうのは分かってるけど、別にそんなことはどうでもいい。それにどうせ、平日のこんな時間には、アスレチックを利用してる人なんていないだろう。紅葉のお気に入りの施設は、それくらい寂れている。
 今日も、当たり前みたいに誰もいなかった。
 軽いストレッチをしてから、紅葉は走り出す。せっかくのアスレチックだ、ちんたらやってちゃもったいない。
 飛んだり跳ねたりしがみついたり飛び降りたり、さながら森の中を縦横無尽に駆け回る子猿だ。真っ白いパンツなんか見え放題だけど、紅葉はそんなことちっとも気にしちゃいない。
 そんなときに聞こえた、カシャンという金属音。少しの間があって、また聞こえた。
 隣接する米軍基地との境界になっているフェンスが音を立てているようだ。
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