ぼくたちだけの天国
その音は、もっと奥まったところから聞こえてくる。
「?」
 なんだろ? 飛び回る脚を止めて、音の聞こえた方に向かう紅葉。彼女は好奇心を隠さないタイプの女の子だ。
 アスレチックの施設が途切れたその先は、林になっていて、少し開けているけれど、フェンスの他には何にもない場所だ。もちろん、そんなところに行く物好きな人なんかいない。
 とか思っていた紅葉だったけど、そこには友達がいたから、軽くびっくりした。
「神威じゃん。なにしてんの、こんなとこで」
 そこにいたのは綾崎神威。シンプルで清潔感だけが取り柄みたいな真っ白いTシャツに、風になびくくらい大腿部が強烈に太いくせに、裾はそれで足が通るの? なあんて聞きたくなるくらいに細くなっている、ボンタンと呼ばれる昭和の不良少年御用達の変形学生服のズボンを履いている、決して真面目ではないなこいつと分かるスタイルで、野球のグローブを手に投球練習を行なっていた。
「おう、紅葉」
 フェンスに向かって硬式の野球ボールを投げていた神威は、小さな笑顔で紅葉を迎える。いつもは前髪を垂らしたウルフカットに決めている彼の髪は、汗に濡れて乱れていた。よく見れば、シャツも汗でびちゃびちゃだ。かなり投げ込んでいたことが分かる。
「なに神威、こんなとこで練習してんの?」
「まあよ。お前もトレーニングか?」
「遊んでただけだよ。なあ神威、もしかしていつも一人でピッチングしてんの?」
「オレ、友達いねーしな」
「そうだよな。でもさ、そんならぼくに言えよ。キャッチャーくらい手伝ってやるよー」
「ありがとう。でも、お前じゃオレの球取れねーよ」
「まじ?」
「見てみっか?」
 神威は足下に落ちていた木の枝を拾い、紅葉に手渡す。
「フェンスの前に立ってみ」
「おけ」
 木の枝をバットに見立てて構える紅葉。神威はその紅葉から離れる。目測で18メートルほと。彼の身体には、ピッチャーマウンドからバッターまでの間隔が染みついている。
「デッドボールはやだぞ」
「誰に言ってんだばか」
 神威のフォームは、ゆったりしたものだった。ヘソの辺りでグラブを置き、軸となる右脚を中心に、左脚を後方へ下げる。
 それから左脚を持ち上げる動作で身体を半回転、その動きで、両手が胸元に持ち上がると同時に後方に回る。
 そして左脚をグッと踏み込む動きで、右腕がしなる。真上から振り下ろされる豪快なオーバースローだ。
 放たれたボールは、紅葉のウエストラインに唸りを上げて飛んでくる。凄まじい速さの投球だ。
 当たり前のように何もできない紅葉は、その迫力ある球威に圧倒されて、後方に尻餅をついてしまう。
「すげえ! はええ!」
 フェンスにボールがぶつかり、派手な音を立てると、思わず座り込んだ紅葉は、反射的に叫んでしまう。
「神威がすげーピッチャーだってことはさゆみんから聞いてたけど、実際に見ると本当にすげーな! あれで何キロくらい出てんの?」
「こないだ計測したときは、140後半くらい出てたから、たぶんそれくらいだと思う」
 神威は涼しげな表情で答えたけれど、中学三年生でそのスピードを出す人間は、そう何人もいない。
「そっか。電車より速いんだなー。神威、プロでもできるんじゃね?」
「ばか、そんな簡単じゃねんだって。紅葉は飛んだり跳ねたり得意だけど、それでジャッキーになれっか?」
「そりゃムリだ。あなるほど、そーゆーことか」
 なんとなく納得できた。紅葉には、野球のことはよく分からないけれど、ジャッキー・チェンに例えてもらえれば分かりやすかった。
 神威は小さく微笑いながら、フェンスに歩みを進める。向こう側に広がっているのは、米軍基地だ。
 錆びたフェンスにもたれて座ると、当たり前のように隣に脚を放り出して座った紅葉に、
「今日は、神崎は一緒じゃないのか?」
「さっきまで一緒だったよ。けどもー別れた。きりかん見に行くってさ」
「…なあ、あの二人って、いったいどうなってんだ? 側から見てっと、つきあってるよーにしか見えないけど」
「へえ、神威でもそーゆー話題持ち出したりするんだな」
「変かな?」
「変ってこたーことないけどさ。誰が誰とつきあってるとか、神威は興味なさそーに見えっから」
「そっか。そんなことないんだけどな。人並み…かどうか分からないけど、好きな奴だっている」
「へえ、そっか。でもま、そらそーだよなぁ。いたっておかしくないもんな」
「で、神崎と茅野だけど」
「あー、うん、つきあってるとかじゃあないよな、まだ。でも、つきあってるみたいなもんだよ、ありゃー」
「そーなのか?」
「うん。しょっちゅう一緒にいるし、たぶんきりかんも、あきやんのこと好きだと思うぜ」
「あいつ無口だから、話しててもそーゆーのよく分かんないな」
「分かるさ。きりかんって、いっつもあきやんのことまっすぐ見てるし、あいつが自分から男子に話しかけることなんて、あきやんの他にいないしな」
「へえ、そうなのか」
 オレ、たまに話しかけられるけどな、なんてことを神威は思う。もっともそのときに霧香が口にする話題は、野球のことばかりだけと。
 神威がそのことを紅葉に話すと、
「友達なの?」
「どうかな…ライバルみたいな感じかな」
「ライバル?」
「茅野とは、リトルのチームメイトでさ。よく練習終わってから勝負したんだよ。なんつっても茅野は、その頃からすげえバッターだったからな」
「そーなの?」
「あーゆー奴がプロになるんだろうなって思ってたよ。茅野とまともに勝負して、打たれなかったピッチャー、見たことねえもん」
「そんなに凄いの?」
「茅野は天才だよ。ただ速いだけの球なんか、軽くフェンスオーバーさせるもんな」
「あんなすげー球投げる神威が言うんだから、本物なんだな、きりかんって」
紅葉は感心した表情になる。同世代にそんな天才がいることが、なんだか誇らしい。
「なんか嬉しくなっちゃうよな。そんなに凄い人と友達だなんて」
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