灯火
***

「う……ん」

 寝返りを打ってはじめて、ベッドの中にジュリオがいないことに気がついた。

「ジュリオ?」

 目を擦りながら起き上がると昨日ジュリオが座っていた椅子に、金髪の見知らぬ中年男性が座って、じっとこっちを見ているのに気がつき――

「きゃっ!?」

 慌てて布団を手繰り寄せて、見えているであろう躰を隠した。

「おはようございます、井上様。私はダニエル・ベルリーニと申します。社長の側近で親戚筋のものです。昨夜は社長が、大変お世話になったようですね。少ないですが、こちらをお受け取りください」

「えっ? なにっ!?」

 金髪をなびかせて椅子から立ち上がり、スーツから何かを取り出してテーブルに置いた。

「日本円で10万円入ってます。足りなかったり何かトラブルがあれば、同封している名刺に連絡ください」

 その言葉に固まるしかない。だってそれって――

「お金なんていらないわ。私は」

「ジュリオ様には、既に決まった相手がいらっしゃるのです。一晩相手をしたからと、のこのこ出てこられては困るのですよ」

「決まった、相手?」

 そんな……そんな話、聞いてない!!

「それとも金額を30にしたら、黙っていてくれますか?」

「……お金なんていらないって、さっき言ったでしょ。出て行って!」

「分かりました。金輪際ジュリオ様に関わらないで戴きたい。それは貴女のためでもあるのですから」

 きっちり一礼して、出て行った側近。

「ジュリオ……」

 自分の気持ちに一気に冷水を浴びせられたようで、涙が止まらない。隣にジュリオがいないだけでも寂しくて堪らないというのに、この現状になす術がなかった。

 ぼんやりと泣いてばかりもいられないので、熱いシャワーを頭から浴びる。泣いたところで好きになった気持ちは変わらない上に、嫌いになることもできなくて。

「うっ……ジュリオ……」

 心にぽっかりと空いてしまった風穴を抱え、バスローブに身を包んで椅子に腰掛けた。

 テーブルの上にある封筒――その横には昨日一緒に飲んだ、リモンチェッロが置かれたままになっていた。それに手を伸ばし蓋を開けて、空いたグラスに注いで一気に煽る。

 炭酸が少し抜けているだけじゃなく生温いせいで、レモンの酸味が口の中に突き刺さるように広がった。しかも酸味だけじゃなく――

「にが……い」

 昨日はあんなに美味しく呑めたのに。ジュリオと一緒に楽しく呑むことができたのに。

「惨めね、本当に。こんなことになるなら、好きにならなきゃ良かった」

 明るくて紳士的で真面目なイタリア人だと思ったのに、すっかり騙されてしまった。

 涙が知らず知らずの内に、どんどん溢れてくる。傷ついた心から膿が出ているみたい。

 辛くて胸元をぎゅっと押さえたとき、部屋のインターフォンが鳴った。

「はい……」

 渋々ドア越しに返事をする。

「私よ、瑞穂ちゃん。おはよ!」

 元気な先輩の声が聞こえたので、ゆっくりと扉を開けた。今日の予定はイタリア観光だったので、一緒に回る約束をしていたから迎えに来たんだろうな。

「ちょっ、どうしたの……その顔?」

 私を見た先輩の第一声、きっと酷い顔をしているんだろう。

「昨日のイケメン外国人と何かあったのね? 大丈夫? 瑞穂ちゃん」

「大丈夫です。ちょっと時差ボケ入っちゃって体調も悪いみたいなので、今日1日寝ていようかなって」

「時差ボケって、そんな……」

 一緒に仕事をして長い時間を共にしてる間柄――きっと私のついたウソを、先輩は見抜いているよね。

「すみません、先輩……」

 いろんな意味を込めて謝ると首を横に振って、ぎゅっと躰を抱きしめてくれた。

「何があったか分からないけど、悲しい出来事は時間が解決してくれるから。焦らないでゆっくりするといいよ」

 先輩からのあったかい言葉に、涙が出そうになる。

「ありがとう、ございます」

「元気になったら部屋に顔を出すのよ。いつでもOKだから。瑞穂ちゃんが落ち着いたなら、相談にものってあげるし」

 最後にぎゅっと力を込めて抱きしめると、頭を撫でてからじゃあねと呟くように告げて帰った。

「悲しいことは時間が解決してくれる、か……。どれくらいかかるんだろうな?」
 
 突き落とされたように一気に恋に落ち、挙句の果てに底が見えないところに置いてきぼりにされて、地上に戻ろうと必死に足掻いている気分みたい。

 ベッドに横になり布団に潜り込んだ。微かにジュリオの香水が残っていて、胸が締めつけられる様に痛いけど――

「忘れなきゃ、いけないよね……」

 溢れてくる涙が頬を濡らしていく。だけど今は拭うことすら億劫で何もしたくないし、何も考えたくもない。それなのに瞼の裏に浮かぶのは、ジュリオの笑顔ばかり。貴方の声が耳から離れてくれない。

「うっ……ジュリオ、どうして――」

 決まった相手がいるというのに、どうして私に甘い言葉を囁いたの? 数日でいなくなる珍しい外国人の私は、都合のいい相手と思って声をかけたのかな。

 胸の中に枕を抱きしめて泣いていたら、疲れ果てて寝てしまった。

(――どれくらい時間が経ったんだろう?)

 何かを叩く物音でふと目が覚めて、布団から顔を出した。

 コンコンコンコン!

 扉をノックする音。もしかしてジュリオかもしれない。

「どうしよ、こっちに来られても困る……」

 また迷惑そうな表情で、あの親戚筋だという側近が顔を出してくるに違いない。

 ノックの音が聞こえないように、再び布団の中に潜り込んだ。

 だけど次の瞬間、扉が音をたてて開いたと同時にジュリオの声が耳に届く。

「瑞穂、悪いけど勝手に入ります」

 扉が閉まる音のあとに、静かな靴音がこっちに近づいてきた。きっとマスターキーを使って、入ってきたんだろうな。

「瑞穂?」

 ベッドの傍にいるのか、くぐもった声が聞こえてきて、否が応にも心臓がバクバクした。

「瑞穂、具合でも悪いんですか?」

 布団に手をかけられたので、必死にそれにしがみつく。絶対に見られちゃ駄目だ。

「そ、そうなの! 時差ボケなのか分からないんだけど、すっごく体調が悪くって。放って置いてくれない?」

「具合が悪いっていうのに、すごい力で布団を掴んでいるようですね。何を隠しているのですか?」

「何でもないから! 帰って!」

 すると布団ごと私の躰を、ぎゅっと抱きしめてきたジュリオ。

「悪いけどそんな泣いた様な声の瑞穂を、そのままにしておくことなんて私にはできません」

「やっ……離して」

 このまま一緒にいたら、間違いなく胸が痛くてつらくなる。どんどん貴方の優しさに甘えてしまうから。

「すみません。きっと朝起きたときに、私が傍にいなかったのが原因ですよね。昨日サボってしまった分、ちょっとだけトラブルが起きてしまって、早朝に出勤しなければいけない事態になったんです」

「…………」

 労わるように布団の上から、そっと体を撫でてくれた。そのせいで涙が溢れて止らない。

「瑞穂、泣いているのですか?」

 下唇を噛みしめて声が出ないように必死になっていたら、ぶるぶると躰が震えていた。

 そんな私の躰から一旦離れると、腕だけ強引に布団の中に入れてきたジュリオ。ぎょっとしたのも束の間、あっという間に布団がめくられてしまった。

 目に飛び込んでくる部屋の明かりと愕然としたジュリオの顔に、躰が一気に強張る。

 悲惨な私の姿を目の当たりにして、ジュリオはイタリア語で何か呟くと、固まる私をぎゅっと抱きしめてくれた。

「すみません。大事な君をキズつけてしまったようですね。寂しい思いをさせて、本当にごめんなさい」

 きつく眉根を寄せて、私の額にこつんと自分の額を触れさせる。澄んだ青い瞳が、心配そうに見つめている様子にそれだけでもう――

「ジュリオ……」

「何があったんです? 話してくれませんか?」

 顔を離して溢れてくる涙を両手で優しく拭うと、髪を梳くように頭を撫でてくれた。まるで強張っている心を、解きほぐしてくれているみたい。

「……朝起きたら貴方の親戚筋だという側近の人がいて、お金を置いていったの。もう関わらないでほしいって言って」

 ジュリオの優しい仕草に勇気を貰って、重い口をやっと開いた。

「最低ですね」

「ええ……。ジュリオ、貴方もよ。だって、決まった人がいるんでしょ?」

 私の言葉にふるふると首を大きく横に振り、切なげな表情を浮かべてため息をつく。

「周りが勝手に、騒ぎ立てているだけなんです。私はその人に逢ってもいないし、当然付き合ってもいない」

「でも……」

「好きなのは瑞穂、君だけです。信じてくれませんか?」

 信じてあげたいけれど、何の保障もない――

 黙りこんだ私の目尻に、そっとキスを落としてくれる。

「もう誰にも君をキズつけさせません。荷物をまとめてください」

 荷物をまとめるって、それってまるで――

「私が守ってみせます。だから信じて、一緒について来てはくれませんか?」

 両肩にそっと置かれたジュリオの手が、とても重く感じられた。

「どこに行くの?」

「側近も知らない私の隠れ家です。あそこなら安心して、瑞穂を守ることができる。誰も知りませんから」

 私を安心させるためなのか明るい表情を作り、ウインクまでして気を遣ってくれたけど、それでも迷ってしまった。

 このままついて行って、本当にいいんだろうか? 好きだからという理由だけで私という荷物を、ジュリオに背負わせていいんだろうか、と。

 誰かを守るということは、自分が盾になるということで。自ら表立ってキズつくというのに――

「ジュリオ……」

「君に私の中にある想いを、見せられないのがつらいです。見えないから、不安に苛まれてしまいますよね。でも……腹をくくったというか、決心してます」

 クリアブルーの瞳が煌くように光った。力強いそれに目を奪われてしまう。逸らすことなんてできない。だって――

「私は瑞穂が好きだから、守り抜くのは当然です。こんな風にキズついた姿を見るのは、もうたくさん」

「……私も……ジュリオが好き」

 だって、その青い色に魅せられて好きになった。キズついてもいい、貴方の傍にいたい!

 細身の体にしがみつくように腕を回すと、ジュリオも私をぎゅっと抱きしめてくれた。私の想いを受け止めてくれたジュリオから離れないように、更に力を入れて抱きしめる。

 ただ目の前にいる人を手放したくないという、自分のワガママを通すだけの行為だって分かっていたけど、それでも縋らずにはいられなかった。

 先の見えない、未来への不安を解消するかのように――
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