Shine Episode Ⅱ
休日の朝、香坂家に現れた籐矢の装いは、これまで見たこともない落ち着いたもので、水穂の母の曜子など、「神崎さん、良くお似合いだわ」 と素直な感想を告げ、かしこまった籐矢は似合わない照れた顔をしていた。
「どこに行くんですか?」
「行けばわかる」
「えーっ、教えてくださいよぉ。誰かに会うんですか? もしそうだったら私も心の準備が必要です」
「それもそうだな……」
そう言いながらもすぐには答えず、運転中のサングラスの目は真っ直ぐ前を向いたままだった。
郊外を抜け海に臨む小高い岡の上に差し掛かると建物の案内版が見えてきた。
フランス語のような響きの名称だけでは、それが何であるのか見当もつかず、目的地に到着しても水穂はまだ首を傾げていた。
車を降り 「行くぞ」 と言い、振り向きもせずに建物へと歩き出した籐矢のあとを水穂は慌てて追った。
「いつもは抱いて歩いてくれるのに、なんでおいて行くのよ」 と、かまってもらえないことを心の中で拗ねながら、ずんずん前を歩く籐矢に向かって、「私の警護はどうなったんですか」 と小さくつぶやいた。
「俺たちの後ろをついてくる車はなかった。ここは安心だ、拗ねるな」
前を向いたままの籐矢から、水穂の心中を見透かす憎らしい返事があった。
建物の入り口で来館者名簿に記入する籐矢を待ちながら、水穂は観察するように周囲を見回した。
ホテルを思わせる落ち着いたロビーにはたくさんの椅子やソファがあり、いたるところで人々が歓談している。
みな歳を重ねた顔であり、立ち上がったり歩いたりするのに介添えが必要な人々ばかりだが、一応に身なりが良い。
パステルカラーの制服を着たスタッフは良く気がつき、動きがおぼつかない人の体が動くたびにそっと手を差し伸べ笑顔を絶やさない。
ここが行き届いたサービスと設備を完備した施設であることは、来たばかりの水穂にも理解できた。
知った顔が多いのか籐矢は歩きながら方々へ頭を下げ、優しい顔で挨拶を返していた。
「どなたがいらっしゃるんですか?」
「京極の祖母だ」
「京極って……神崎さんのお母さんのお母さん……」
「そうだ」
素人目にもわかる凝った装飾品や絵画が飾られたロービーを見ただけでも、誰も彼もが入れるところではないと水穂はため息をつきながら感心していた。
エレベーターを降り、廊下の奥に目的の部屋はあった。
慣れた様子で籐矢は室内に入ると、椅子に腰掛けて外を見ていた女性が気配に気がつき振り向き、幼女のような笑みを見せた。
「まぁ、籐矢さん。良く来てくれたわね」
「おばあさま、今日は顔色がいいですね」
いつもの乱暴な言葉ではなく、祖母を 「おばあさま」 とためらいもなく言うところなど、籐矢の出自が並みでなかったと水穂は今頃になって思い出した。
大企業の社長を父にもち、その長男に生まれながら父の跡を継ぐことなく好きな道を選んだ籐矢は、一族では異端なのだと聞いたことがあった。
ふたりの話がおかしいと水穂が気がついたのは、籐矢が祖母に向かって話した事柄からだった。
贈り物のお礼を伝えして欲しいとの祖母の言葉に 「わかった、君は心配しなくてもいいよ」 と籐矢が答えたのだ。
「よろしくお伝えくださいましね。お返しは何がいいかしら」
「考えておいてくれないか。君が選んだものなら間違いないからね」
こんなやり取りがあったかと思えば、
「籐矢さん、今日はどうしたの。お休みかしら? お仕事ばかりしていちゃいけないわ」
「えぇ、休みです。おばあさまのお顔を見たくてきました」
二人の会話の時間の流れが普通ではない。
籐矢は祖母の話を否定することなく、臨機応変に言葉を返していく。
どうしてこんなに優しいことができるのかと、水穂が驚きながら眺めていると、突然 「こんにちは」 と声を掛けられた。
いま水穂に気がついた、そんな声掛けだった。
「籐矢の祖母でございます」
「あっ、はい。私は神崎さんの部下で香坂水穂です」
「水穂さん、どうぞゆっくりしていらしてね」
優雅に微笑み、「あら、お茶を差し上げなくては」 といそいそと立ち上がった祖母は、部屋の一角に設けられた小さなキッチンに向かった。
カップを出したまでは良かったが、お紅茶はどこだったかしら……と立ちすくみ、思い出せないわと悲しげな顔を籐矢に向けた。
「ここですよ。おばあさまは座って待っていてください」
「ありがとう、ではお願いするわね」
残念そうな顔をしながら椅子に戻った人は、水穂に仕事の話を聞き、籐矢と一緒に仕事をしていると伝えると、
「籐矢はちゃんと仕事ができていますか? この人はやんちゃなところがありますから貴女も大変ね」
などと苦笑いするようなことを言ったりする。
水穂は話の合間にキッチン前の籐矢の手元も見ていた。
大きめのティーポットに沸騰した湯を注ぎこむと、ティーコゼーをかぶせて砂時計で時間を計る。
流れるような動作でティーセットを並べ、慎重に紅茶を注ぐ様子は日ごろの籐矢からは想像できないものだった。
籐矢の淹れた紅茶の甘い香りは、水穂の記憶の中に長く残った。
紅茶の香りとともに祖母の穏やかな顔と籐矢の優しい顔を思い浮かべるたびに、温かな気持ちに包まれるのだった。