Shine Episode Ⅱ


弘乃は籐矢にとっても大事な人である。

昨日の午後 「私は心配いりません。見舞いは無用に願います」 と断る弘乃の言葉を押し切って、弘乃が身を寄せる息子の家にわざわざ足を運んだのは、体の心配もあったが詫びる気持ちを伝えたかったことにある。

弘乃は籐矢に深く関わる人物で、籐矢の弱点とみなされたために敵に狙われたのだ。

弘乃にも、弘乃の家族にも申し訳ない思いだった。

とにかく体を休めてほしいと言葉を尽くした籐矢へ、弘乃はこう返事をしてきた。



「近衛さまのお宅のお仕事は、新居に移られたあとお暇をいただくことになっております。

籐矢さんが日本にお帰りになるまで、ゆっくりさせていただきます」



近衛宗一郎の家から暇をとるのなら、この辺で家政婦の仕事を引退してはどうかと勧めた。



「ひろさんの気持ちはありがたいが、俺の帰国の時期は見通しがたっていない。

数年先かもしれない」


「さようでございますか。では、マンションへ、ときどきお掃除にうかがいます。

いつお帰りになられてもよいように、準備万端整えておきますのでご安心くださいませ」



籐矢の言葉など耳に入っていない言葉が続いた。

お手当も充分にいただいておりますので、その分のお仕事をさせていただきますと笑う弘乃を、どう説得しようかと言葉を迷っていると、



「私は、籐矢さんのお子様をこの腕に抱くまで、引退するつもりはございません」



きっぱり言われてしまったのだった。

結婚の予定もないのに子どもを抱くまで待つと言われて、籐矢はますます言葉に困った。

いや、その……と言葉を濁していると、まだお仕事がおありになるのでしょう、どうぞお帰りくださいと、追い返すように急き立てられた。



「次はいつお帰りになるのかわからないのでしたら、お父様、お母様ともお話しくださいませ。

おふたりは、いつも籐矢さんのことをご案じなさっていらっしゃるのですからね」



母のように慕う弘乃にこういわれては、籐矢も従うしかなく、恐縮する弘乃の息子に見舞いの品を託して立ち上がった。

元気で……と短い言葉で弘乃に別れを告げ背を向けると 「水穂さんと仲良くお過ごしください。喧嘩はほどほどになさいませ」 と声がかかり、籐矢は逃げるように家を出た。

リヨンで一緒に暮らしていると言った覚えはないが、どうして知っているのだろう、それとも、単に仲良く過ごすようにと言いたかったのか。

弘乃の言葉は親に言われるより身に染みるものだと思いながら、弘乃が籐矢の子を腕に抱く姿がふと頭に浮かんだ。

それを見守る自分と赤ん坊の母親を一瞬だけ想像して、大きく頭を振った。

急ぐ用事もないのに駐車場までの道を走ったのは、にわかに高揚した感情をしずめるためだ。

途中でベビーカーを押す若い母親とすれ違った。

麻衣子が生きていたなら、どんなにか楽しい時間が待っていただろう、早ければ結婚もして、子どものひとりもいたかもしれないのに……

これまでも、妹の消えてしまった未来を何度となく思った。

麻衣子の未来を奪った奴らを絶対に許さない。

胸の奥に燻ってた熾火が、火花を散らし燃え上がるのを感じた。

そのとき、一瞬だけ思い描いた自分の未来も頭から消えていた。


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