Shine Episode Ⅱ
6. 情報と作戦
リハーサル直前、一応目を通しておくようにと言われ責任者から渡されたのはオーケストラのフルスコアだった。
目を通せといいながら、楽譜なんて見てもおまえにはわからないだろうと言わんばかりの目を籐矢に向けている。
芸術に携わる者特有の優越感に満ちた態度に、内心うんざりしながらもそれを受け取り、相手の目の前でいかにも楽譜はわかりませんといった顔でスコアをぱらぱらとめくって見せた。
「フン」 と見下した笑いを残して責任者は離れていったあと、改めてスコアを開く。
音符の羅列に懐かしさを覚え、籐矢は自嘲気味に口元をゆがめた。
譜面を手にするとたちまち目が音符を追い、頭の中に旋律が流れる。
無意識に音符を旋律に変えてしまうのは染み付いた習慣であり、事件現場に行き状況から犯人像を思い浮かべる作業にも似ている。
それは、籐矢にとって意識的にやめるのは不可能に近いものだった。
指揮者がタクトを振り下ろし音楽が奏でられると同時に、体の全神経が音に向かい合う。
それもまた籐矢にとって無意識のことだったが、指揮者の向こう側に仲間の顔を見つけて、任務でこの場にいるのだったと我に返った。
リハーサルの間は神経を張り詰める必要はなく、演奏においても第三楽章まで籐矢の出番はない。
肩の力を抜き音への集中を解いた。
挑むように音を奏で、譜面の音色を表現することに夢中になっていた少年の頃、音楽から離れた生活は考えられなかった。
音楽は生活の一部であり、教えられる知識ととめどなく入ってくる情報を必死に追いかけた。
見知らぬ世界を知ったとき貪欲に吸収しようとするのは若さの特権であり、籐矢もあらゆる音楽を受け入れた。
中でも民族音楽とジャズは籐矢の心を強烈に揺さぶり、譜面上に表しきれない旋律に引き込まれのめり込んでいった。
ところが、クラシック一辺倒のピアノの講師は他の系統を認めようとせず、籐矢が好む音楽をことごとく否定した。
奏でることはもちろん聴くことさえだめだと言い、「高貴な音に耳を傾けなさい」 ともっともらしい高説を唱え続けた。
好奇心のかたまりである若者がいらぬ興味を持たぬように、純粋にクラシックだけを学ぶ環境を整えるために、他の音楽は邪道だと決め付け、進むべき道筋は一本しかない、余所見をしている時間はないのだと自分の考えを押し付けた。
そうまで抑えつけられても籐矢が奏でることをやめなかったのは、 ピアノの音色が母親の思い出につながるものであり、やめてしまえば思慕も打ち消されてしまうかもしれないというおそれからだった。
母の友人から紹介された小松崎が籐矢の師となったのは中学の頃だった。
小松崎はいずれ教授になるほどの実力があり、各方面に顔も広い、将来的に音楽の道を目指すのであれば、それなりの実力がある指導者についたほうが良いらしい。
そう聞かされた母は、籐矢のために小松崎を招いた。
きっかけは、講師の何気ない一言だった。
このピアノは古い、新しい物を購入したほうがいいと、そのころ大学の講師から准教授になったばかりの小松崎が口にした。
ピアノに母の面影を重ねていた籐矢には、小松崎の言葉は母の否定につながった。
よりよい音色を引き出すためにグレードの高い楽器が必要だといわれたのなら受け入れたかもしれないが、音楽は古典が大事だ伝統を重んじなければと言いながら、古い楽器だからというだけで新しいものを勧めてくる態度に不信感が募った。
継母にとっても姉の思い出につながるピアノを手放すつもりはなかったようで、二台並べておきましょうと言ってくれた。
それなのに、小松崎から出た言葉は 「古いピアノは処分して買い替えた方がお得です。私は顔が利くので、下取りを高くさせましょう」 だった。
思い入れのあるピアノを金銭に代えてしまおうというのだ、それこそ籐矢は問題外だと思ったが、買い替えを勧める裏側に小松崎が得る利益が絡んでいると知るや否や、籐矢から音楽への興味がうせていった。
音楽が嫌いになったわけではなかった。
生徒に楽器を勧めることで少なくない利益が小松崎にもたらされる事実は、まだ潔癖さを残す10代の心を傷つけた。
自分は母の思い出を手放すのに、小松崎は講師の立場を利用して金銭を手にしようとしている。
その事実は、籐矢から 「やめます」 という言葉を引き出したのだった。
「第三楽章、ここは……」 と指揮者の声が聞こえてきた。
任務を背負いオーケストラの一員として紛れ込んだが、演奏に手を抜くわけにはいかない。
演奏者となるために苦々しく思い出していた記憶を頭の奥にしまった。