Shine Episode Ⅱ
籐矢から 『これから部屋に行ってもいいか』 そう電話で聞かれて、『いいですよ』 と水穂は返事をした。
いつもなら水穂の都合など聞かずにやってくるのに、珍しいこともあるものだと思いながら籐矢が好む紅茶の準備をはじめた。
ほどなく部屋にあらわれた籐矢はただならぬ気配をまとっていた。
何かありましたか……と聞きたい思いを押し込め、水穂はさりげなく声をかけた。
「紅茶をいれます、少し待ってくださいね」
「うん……」
ソファに深く腰掛けた籐矢を目の端に置いて、キッチンに戻りカップを並べる。
「日本人が巻き込まれた事故があった。現場を見てくる」
そういって籐矢が出かけたのは一時間ほど前のこと。
沈痛な面持ちから察するに、被害者の状態は良くないものだったのではないか……
水穂は最悪の事態を想定した。
ガラスポットに熱湯を注ぎ、茶葉のジャンピングが落ち着くのを待つ。
それまで紅茶はティーバッグで気軽に楽しむものと思っていた水穂は、籐矢の母方の祖母である 「京極のおばあさま」 に会ってからというもの、 紅茶にこだわりを持つようになった。
籐矢が欧州へと旅立ったあと、籐矢の祖母のもとへ何度か足を運んだ。
新しい記憶が曖昧で、最近会った人を覚えることが困難だと聞かされていたのに、京極の老婦人は水穂のことは良く覚えていた。
「神崎さんとフランスで一緒に仕事をすることになりました」 と伝えると、
「籐矢が好きですから、あなたが淹れてあげてくださいね」
と言い、紅茶の手ほどきをはじめ、籐矢が好む茶葉を持たされた。
「紅茶の葉が踊るように浮き沈みするためには、まるいポットが良いのですよ。
お湯は勢い良く入れてくださいね。
お仕事で大変なときもあるでしょうが、美味しいお茶をいただくと心が落ち着きます。
水穂さん、籐矢をおねがいします』
水穂は京極の老婦人の言いつけを守り、籐矢の好む香りと味の仕上がりを心がけている。
仕事で大変なとき……とは、まさにいまの状態ではないか。
ポットの中で勢い良くジャンプする茶葉を見ながら籐矢に掛ける言葉を探した。
日頃、水穂をからかうようにふざけたことばかりを口にするが、ひとたび心に錘を抱え込むとその口は重く閉ざされてしまう。
長い付き合いで水穂が知りえた籐矢の影の部分だった。
籐矢が出かけて間もなく、潤一郎から電話があった。
『籐矢へ伝言を頼みます。個人的な用ですができるだけ早く返事がほしいので、電話をするよう伝えてください』
籐矢の携帯に何度かけても繋がらず、水穂へかけたのだという。
潤一郎の様子から出来るだけ早く返事が必要だと思われたが、悲壮感をまとって帰宅した籐矢に 「電話がありました」 と言い出せない。
これが事件に関するものならすぐにでも伝えただろうが、潤一郎の電話の声はどちらかと言えば良い知らせをもたらす明るいものだった。
沈む思いを抱えた籐矢には、少し間をおいて伝えたほうがいいだろうと水穂は判断した。
ミルクと角砂糖を多めに用意して、クッキーを添えて出した。
クッキーを2・3枚頬張り、紅茶のお代わりを告げる頃には籐矢の重い口もほどけてくるはずだ。
彼の気持ちが和らぐようにと願いつつ、とっておきの皿を用意してトレイに乗せていると背後に気配を感じた。
いま運びますね……と声に出す間際、背中から抱え込まれた。
背中から伝わる気持ちの重さを感じながら、水穂は努めて明るく振舞った。
「紅茶が待てなかったんですか?」
「うん……」
「京極のおばあさまの直伝ですから美味しいですよ。
でも、このままだと紅茶に渋みがでます。離れてもらえると助かります」
「うん……」
うん、と言いながら籐矢は水穂の背中から離れようとしない。
背中から人恋しさを感じ取った水穂は、皿からクッキーを一枚つまんでうしろに差し出した。
水穂の指も一緒にくわえた口がもぐもぐと動き、そのたびに肩も揺れる。
水穂がくすぐったそうに体をよじると、その動きを封じるように籐矢の抱く手に力が入る。
口が空になったのか 「水穂」 と声がした。
「美味しかったでしょう。もう一枚どうぞ」
そう言ってクッキーにのばした水穂の手をつかんだ籐矢は、その手を引き寄せて正面で抱きしめた。
言葉を挟む隙も与えぬ抱擁がしばらく続いた。
されるがままになっていた水穂は、ふと力が抜けた籐矢の腕から顔を離し、湯を注いだまま気になっていたガラスポットに目をやった。
ジャンピングを終えた茶葉はすでに沈んでいた。
「あっ、紅茶の渋みがでちゃう、カップに注がなきゃ」
そんなことは知っているとでも言いたいのか、そんなことは気にするなと言いたいのか、ポットを気にする水穂の顔に大きな手が添えられ正面へと向けられた。
「あとで淹れてやる」
俺が淹れ直す、だから黙ってろと言わんばかりに乱暴に口をふさがれた。
こんなに気持ちが乱れるなんて、何があったのだろう……
心で問いかけながら水穂は大きな背中に手を回した。