氷室の眠り姫
ガツッ、と流が樹の胸ぐらを掴んで壁に叩き付けた。
「どういうつもりなんだ!主上には東宮という後継ぎもいらっしゃる。今更側室なんて必要ないだろうが!」
頭に血が上ったせいか敬語が抜けているが、流は気付かない。
「しかも紗葉とは親子ほど歳が離れているじゃないか!!なのに何故!?」
更に詰め寄ろうとする流を樹は力任せに振りほどいた。
「そんなことは全て承知で嫁いだんだ!理由は、流が知る必要はない」
樹も内にあるやりきれない怒りを隠そうとしないで言い返した。
「……流に事前に話すことができなかったのは悪かったと思っている。たぶんこれは父上も思っていることだ。だが、立場的に言えないこともあるんだ」
相手が帝家ならば尚更に。
口にはしなくてもそう続くだろうことは流にも分かった。
樹が、そしておそらく柊も今回のことは不本意なんだろうと察せられて、流は唇を噛んで口を閉じた。
「……帰ってください」
流は樹から手を放すと背を向けて、震える声でそれだけ告げると部屋から出ていった。
樹が言いたいことも分かった。
貴族に顔が利くとはいえ、ただの宝石商である自分が帝家に関わればただではすまない。
しかも、理由を言えないということなら帝家の、下手をすれば国の最高機密という可能性もある。
(俺に危険が及ばないように、という配慮なんだろうが……)
そんな複雑な環境に紗葉がいると思うと流は居ても立ってもいられなかった。
(だが、帝家となると猪突猛進に突っ込める相手じゃない。上手く立ち回らないと…)
柊や樹の心遣いも分かってはいたが、流はそれに従うつもりは一切なかった。
流が想うのは紗葉のことだけ。
「…紗葉、つらい思いはしてないか?」
主上の信頼も厚く、名も知られている柊だが、朝廷での力はそれほどない。
つまりはその娘の紗葉も後宮で軽く扱われている可能性もある。
自分に何ができるか分からないし、むしろ何もできないかもしれない。
それでも何もしないという選択肢は流にはなかった。
(紗葉が幸せならそれでいい…だが、そうでないなら…!)
流は決意も新たに、後宮に探りを入れる為の準備を進めることにした。
(少なくとも、どこにいるかすら分からなかった時よりは一歩進んでる)
これから待ち受けている苦悩を流はまだ知らない。