氷室の眠り姫
「…紗葉。主上が決断を下されました」
風音が部屋から出てすぐに、爽子が真剣な表情で語りだした。
「近々、東宮に譲位されることになりました」
「……っ」
思っていたよりも早いそれに紗葉は息をのんだ。
「爽子様、主上の具合に異常でもあったのでしょうか?」
「いいえ。貴女のおかげで主上も調子が良いようで、今朝も東宮とご一緒に散歩に出られていたの」
爽子の返事に紗葉は安堵の息をついた。
「ならば何故…?」
「…どうやら不届き者がまだいるようでね」
冷ややかな声の調子に、紗葉の背中に冷たい汗が伝う。
その不届き者が誰を指すのか察して、紗葉は爽子の後宮内での把握力を改めて感じて畏敬の念を抱いた。
「本当ならば後宮追放、といきたいところですが、面倒なしがらみのせいでそうもいきません」
爽子は深々とため息をついた。
「…元々、最期の時は二人穏やかに過ごそう、と決めていました。紗葉のおかげで思っていたよりも長い時間そんな風に過ごせそうです」
にっこりと微笑んだ爽子は誰の目から見ても美しくて、紗葉はつい見惚れてしまっていた。
「…主上も私も貴女の行く末を心配しているのです」
名ばかりとはいえ、主上の側室に上がった紗葉は他の誰かの元へ嫁ぐことは許されない。
(それ以前に……)
紗葉の脳裏に浮かぶのは、後宮の女官と仲睦まじげに肩を寄せあっていた流の姿。
(もう、わたしが戻りたいと思っていた場所には戻れない……)
紗葉はツキンッと痛む心を隠すように、にっこり微笑んだ。
「私は主上のお許しが得られるなら役目を果たしたら実家に戻って父の仕事を手伝うつもりです」
「でも…紗葉、貴女は…」
紗葉の口から直接聞いた訳ではなかったが、紗葉に大切な存在がいることを知っている爽子は言葉に詰まる。
「私は私が大切だと思った方が幸せであれば良いのです」
真っ直ぐな紗葉の言葉は、爽子にとっては切ないものだった。
爽子の顔が複雑そうに歪むが、紗葉は微笑みを崩さない。
「爽子様と主上の時間が少しでも長くなるように、精一杯のことをさせていただきます」
爽子は紗葉の決意を無視することはできない。
「……ありがとう、お願いするわ。でも無理だけはしないで」
爽子の言うことを聞けないのは分かっていたから、紗葉は明言することなく微笑むだけに留めた。