氷室の眠り姫
「…お気遣い、ありがとうございます。紗葉様も少し落ち着かれており、このまま無理をしなければ宿下がりも問題ないかと思われます」
紗葉の言葉に志野も爽子もホッと安堵の息をついた。
「挨拶に伺えないことをお詫び申し上げておりました」
「そうですか。宿下がりする時は見送りに出たいと思っていたのですが」
もちろん、そんなことをしてもらうわけにはいかない。
「紗葉様は弱った姿を見せるのは忍びないとおっしゃっていらっしゃいます。どうか紗葉様のお心をお汲みいただければ…」
紗葉の言葉に少し哀しそうな顔をした爽子だったが、無理強いをするつもりはなかった。
「そう…なら仕方ないわね。でも何かあればすぐに私に連絡するように伝えてちょうだい」
「かしこまりました」
爽子の優しい心遣いに思わず涙しそうになりながら、紗葉は深々と頭を下げた。
自室に戻った紗葉は最後に残った荷物をまとめることにした。
「…結局、これだけは手放せなかった…」
そう言って紗葉が取り出したのはたくさんの宝石の原石が詰まった箱だった。
それらはかつて流から贈られた原石。
「石の輝きはきっと永遠に変わらないのね」
優しい表情を浮かべながら石を撫でると、紗葉は箱に蓋をした。
そして紗葉が後宮を辞する日、爽子と志乃以外にそれを知る者がいなかったせいもあるが、紗葉の望み通りに見送りの者はいなかった。
(二度とここに来ることもないわね)
紗葉は小さく苦笑いを浮かべると、実家に戻るべく車に乗った。
しばらく静かに進んでいたが、突然車が止まった。
「どうしたの…」
状況を把握しようと運転手に声をかけるが返答はなく、紗葉は眉をしめながら外を確認しようとした瞬間、紗葉の隣に誰かが乗り込んできた。
「……っ!?」
驚きのあまり悲鳴をあげそうになったのを紗葉は何とか抑え込んだ。
「……紗葉はどこだ」
そう紗葉自身に問いかけたのはあろうことか、流だった。
「この車には紗葉が乗っていたはずだ。どこにいる!?」
流のそのセリフに言い様のない感情が駆け巡った。
流がまだ自分を求めてくれているのかも、という喜び。
何故自分に気付かないのかという怒り。
分からなくて当たり前だという諦め。
それでもまだ自分は流を愛しているのだという切なさ。
そんな感情が渦巻きながらも、紗葉は名乗ることなんてできなかった。