さようなら、初めまして。

「…さっきは、ごめんなさい」

「ん?何が?」

「教えてもらってもないのに、勝手に、ジンさんて呼んだりして」

「何で?」

何で?どっちだろう。勝手に呼んだ事に?ジンさんと言った事に?

「ああ呼ぶのが自然だろ?あれは良かった。普通、待ってる人間が来たら呼ぶだろ」

そうじゃなくて、私は名前を呼んでしまった事が、紹介された訳でもないのに、偶然聞いた、名前であろう呼び名を呼んだ。それが…。

「いいよ…ジン、でいいよ」

あ。…勝手に知った名前、呼んでいいんだ。

「呼び捨てには出来ません」

「してただろ?」

「え?」

した覚えはない。アキちゃんにだってジンさんて言ったと思う。だけど、ジンて呼ばれてたって言ったかな。…大きな声で呼び捨ててたのはむしろアキちゃん。あれが聞こえてたのかな…。え?…それは、無いよね…?え?

「…あっ!…まずい…違う違う何でもない。みんな、さんなんて付けないから、ジンでいいんだ」

上司みたいな人にも呼び捨てられていたから。

「あ、そういう意味…」

「あぁ、そう。そういう意味だ」

…んん…?。

「あ、でも、やっぱり、私はジンさんにします」

「そうか。ま、どうでもいいよ」

「はい」


歩いてもアパートはそう遠くない。

「着いたな」

え?

「ぅ、あー、ここじゃないかって思ったんだ。ほら、歩みも遅くなったし、それに…何となくホッとした顔になったから」

そういう事。鋭い洞察力というか…凄い繊細なのね。普通気が付かないでしょ。

ガラ…、ガラ…。

「よいしょ、重いわね…。あら、逢生ちゃん?今日は随分遅かったのね。おかえりなさい」

百子さん。男の人の声が聞こえて心配したのだろう。

「ただいま。あ、こちらは…私が靴…」

「おや、悠人(ハルト)さん?…」

「え?…百子さん…違…違う。違う人…」

間違えようもないのに。どうして。

「あ、そうよね、私ったら。何でかしら…ごめんなさいね、逢生ちゃん。ごめんなさい。
それから貴方も、失礼をごめんなさいね」

戸を開け話していた百子さんは、ばつが悪いのか、中に戻ってしまった。

あ…どうして、あんな事、言ったんだろう。悠人なんて、どうして。…見間違えたとも思えない。…暗くたって、違う人は違う人でいいじゃない。…何故?…。悠人って…。外見も違うのに……。こうやって二人でなんて…今はあり得ないのに…。
…。はぁ。…。あ、いけない…。待たせたままだった…。

「…ごめんなさい。あの…、大家さん、何だか人違いしてしまったみたいで。違うのに…。
…今日は助けて頂いて…有り難うございました。…あ」

ジンさん?

「…大丈夫か?」

あ。大丈夫かって…?。

「…は、い。あ、の…百子さんたら、勘違いして…どうしたんだろう。ちょっと遠くて…暗くて…よく見えなかったからなんだと思うけど…」

それだって、本当は有り得ない事…。目尻に触れられた。…あ、私…。

「アイ…」

…え?

「あぁ、ごめん…アイっていうんだと思って。…ごめん、大丈夫か?」

「…はい。…私は逢生です」

半分以上、放心していたかも知れない。

「…アイ」

…あ。百子さんの言葉に動揺してしまった私は自分でも気付かない内に涙が流れていた。
その私を今、ジンさんは黙って抱きしめていた。泣いていたから気遣ってくれたの?事情をよく知らないはずのジンさんが、何故こんな…大丈夫か、って…。
大きくて温かい胸は、お日様の匂いがした。何だか…安心する匂いだった…。
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