結婚願望のない男
「…すみません、手、ケガしましたか?」
まだ痛そうに左手をさすっているその男の人に声をかける。
「…あんたこそ大丈夫か?電話先のオッサンの怒鳴り声がここまで聞こえたけど」
男は私と同年代かちょっと年上…20代後半ぐらいに見えた。やや長めの前髪から覗く瞳は鋭く、私は一瞬ひるんでしまう。
「わ、私のことはいいんです!上司に渡す資料を間違えてしまって、急いで正しいものを届けに行こうとしてたんですけど…。その上司から電話がかかってきたので、つい運転中に出て…それで、こんなことに…」
「俺のケガだけど、変な風に手をついちまった。指の付け根に違和感ある」
「…え!!!」
彼がさすっている左手を見ると薬指と小指の付け根あたりがほんの少し赤黒く腫れている。
「び、病院に行きましょう!あ、警察にも連絡が必要なんでしたっけ!?」
私が手をのばすと、男は私の手を冷たくはねのけた。
「病院ぐらい一人で行ける。それよりあんたはケガは?」
「わ、私は全然!それより、あなたのケガが…!い、一応保険には入ってるのでお金は大丈夫だと思いますけど…」
「こういう事故って労災とかになんのかな?後で確認だな」
そう言いながら、彼は左手をかばいつつゆっくりと立ち上がり、スーツのほこりを右手でぱたぱたと払う。
立ち上がった彼は、予想外に背が高かった。180㎝は超えているだろう。
160㎝に満たない私は彼をずいぶんと見上げる形になる。
「ケガがないならあんたはさっさと仕事に戻れば?客のとこに謝罪しに行くにしても、早いほうがいいだろ。一応あんたの名刺だけちょうだい。警察への連絡とかはこっちでやっとくからさ。ケガっつっても多分大したことないし、被害届とか出すつもりないから。治療費だけくれれば問題ない」
と、言いながら地面に投げ出された鞄と紙袋を拾って彼は着々と身支度を整える。
「でも…」
「俺の連絡先はこれ」
そう言って彼は名刺を差し出してきた。
名刺には、『ワタナベ食品 商品開発2部 山神弓弦(やまがみ ゆづる) 副主任』と書いてある。
ワタナベ食品はこの公園の近くに本社のある大手食品メーカーだ。私の会社からも歩ける距離にある。
「あ、じゃ、じゃあ…」
私もおずおずと名刺を差し出した。こんな状況で名刺交換なんて滑稽だ…。
「さ、俺のことは気にせず行った行った。さっきも言ったけど、大したケガじゃないのは自分でわかるからさ」
彼はそう言って私の返事を待たずにさっさと歩きだしてしまう。
「あ、ちょっと!」
私は戸惑ったけれど、彼の表情は平然としたものに戻っていて、歩く様子も普通だった。
後ろ髪を引かれる思いはあるけれど、自分が違う意味でピンチなのもまた事実だ。
(連絡先は聞いているし彼の厚意に甘えてしまおう。私は私で、この後の課長や顧客へのフォローが大変なんだから…)
そう自分に言い聞かせ、私は彼の後ろ姿を見送った。