結婚願望のない男
***

「今日は本当にごちそうさまでした。とっても楽しかったです」

玄関口で私は山神さんのお母さんに深々と頭を下げた。

「こちらこそありがとう遥さん。弓弦をよろしくね。根は優しい男だから。普段は家事とかそんなにマメではないかもしれないけど、私が体調を崩したら黙って掃除も料理も洗濯も全部やってくれるような子なのよ。だからあなたも安心して。二人の結婚する日を楽しみにしてるから」

「だからまだ気が早いって…。それじゃ、もう帰るから。行こう、遥」


手を振るお母さんにもう一度頭を下げて、私たちは駅へと歩き出した。
山神さんはお母さんが見送っている間、私の手をぎゅっと握っていた。恥ずかしかったけれど、従うしかなかった。お母さんの姿が見えなくなってから、私たちの手はゆっくりと離れた。


日はすっかり暮れ、夜の静かな住宅街は私たちのほかに誰一人歩いていない。
しばらく無言だった山神さんが、駅が見えてきたあたりでぽつりと口を開いた。

「今日はお疲れ様。母さんが喜んでくれたみたいでよかった。これでゲイの疑いは晴れたろ」

「そうですね。お役に立てたみたいでよかったです。これでちゃんと怪我のお詫びができた気がします」


もう6月も半ばを過ぎ、昼間はすっかり夏の暑さだけれど、夜は少し冷える日もある。とくに、今吹いている風はやけに冷たく感じた。
今日はとても楽しかったし、山神さんに可愛いところがたくさんあることも、幼少期から優しい人であることもよくわかった。


正直…。本当にこんな人が彼氏だったらいいのに…と。レンタルでもいいから、ずっとこの関係が終わらなければいいのに、と思っている自分がいる。彼氏のいなかった3年間ですっかり忘れていた、男性にドキドキする感じや、相手の新しい一面を知ってわくわくする感じ。山神さんと一緒にいると、そういう感覚で胸がいっぱいになるのだ。これは、たぶん相当…私は彼に惚れかけている、と思う。
でも、彼の怪我はすでに治っていて、お見舞金代わりのレンタル彼女もこれで終了。となると、彼と会うのは今日が最後になるのだ。
(これが、最後、なんて……)


電車の中では他愛ない話をした。最寄り駅が一駅違いだから、長い時間一緒に乗っている。けれど、彼が降りる駅は刻一刻と近づいてくる。彼と一緒に過ごす時間は楽しくて、だからこそあっという間に終わってしまう。
(最後なんて、嫌だ)
女の私から言うのは恥ずかしいけど、でも──。
とうとうあと一駅となったところで、私は切り出した。
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