結婚願望のない男

ワタナベ食品は、私と山神さんが出会った公園を過ぎて10分ぐらい歩いたところにある。タクシーを使うような距離ではないので、島崎くんと二人で歩いて向かう。天気は悪くないけれど、まだ梅雨が明けていないせいか空気がじめじめしていて、嫌な汗をかいた。
ワタナベ食品の受付に着くと、涼しい空調のおかげでそこが天国のように感じられる。島崎くんと二人でその涼しさに感動しながら、広くて綺麗な受付で手続きを済ませた。
ほどなくしてワタナベ食品の担当者が出てきて会議室に通される。ワタナベ食品マーケティング部の2名と広告代理店の担当者1名でオリエンが始まった。


ワタナベ食品側の担当者は、1人が谷本という40代ぐらいの男性、もう1人は香川という30代ぐらいの眼鏡の女性だった。香川さんがこの案件のメイン担当だそうだ。会議の出席者に山神さんの影も形もなくて私は内心ホッとする。

「今日は暑い中わざわざお越しいただいてありがとうございました。今回は、弊社の人気商品『CUREチョコ』シリーズの期間限定新商品の発売に際して、様々な販促キャンペーンを実施しますので、そのキャンペーンがどうだったか事後分析をしていただきたくてお呼びしました」

香川さんがパワーポイントを壁に映しながら概要を説明する。
(あ、『CUREチョコ』…。こないだ島崎くんが分けてくれたチョコだ。今すごく売れてるんだよね…。今回分析する期間限定の味は、チョコミントかぁ…。おいしそう…)
どのお菓子がどのメーカーのものかを意識したことはあまりないけれど、『CUREチョコ』はワタナベ食品の菓子の中でも主力ブランドだったようだ。香川さんの説明によると非常に大規模なキャンペーンが打たれる予定になっている。
テレビCM、雑誌、店頭などの従来型のキャンペーンはもちろん、期間限定サイトや限定アプリなど、インターネットでの展開も充実している。さらに、広告イメージキャラクターとして今女子高生に人気の若手俳優も新たに登用する力の入れようだ。これは分析しがいもありそうだ。販促キャンペーンには、結構な反響があるだろう。


香川さんの説明の後で、私たちは分析に必要な事前準備やだいたいのスケジュール感を伝える。一時間ほど話し合い、「キャンペーン事後アンケートの調査票(注:アンケートの質問票のこと)と詳細スケジュール、お見積りを次回打ち合わせ時に」ということで、私たちはオリエンを終えた。


「今大人気のチョコのキャンペーンに関われるのはすごくラッキーだと思うんですけど、結構ボリュームのある案件になりそうですね」

帰社する途中、島崎くんは気怠そうに肩を伸ばしながらそう言った。

「とくに調査票がだらだらと長いものになりそうで心配です。香川さんはユーザーに何をどこまで掘り下げたいのか、イメージを固めることができてませんよね?商品の感想とイメージと、CMやキャンペーンサイトの感想と、ワタナベ食品の企業イメージと、ライバル企業の商品の感想に、回答者の価値観や生活レベル…これで全部でしたっけ?なんていうか、全部盛りになっちゃってるというか…。このボリュームじゃ今の金額では到底無理ですよ。香川さん、一見しゃきしゃきしたキャリアウーマンって感じだけど、実際はちょっとふわっとしてるというか…」

「うーん、まぁそうよね。全部盛りは難しいから、こちらでいくつか調査票案を作って、見積もりも複数パターン用意しないと…。なんとか調整しないと難しいわね」

島崎くんの言う通り、この案件は少々手こずりそうだ。けれど、ワタナベ食品という大手顧客を掴まえるためにも、最近課長に怒られてばかりの自分のためにも、そして私のためにサブ担当に加わってくれた島崎くんのためにも失敗するわけにはいかない。

私たちはオリエン後、全体スケジュールや予算などに関わる案を私が、調査票の詳細案を島崎くんが作ることにして分担して作業した。
< 45 / 78 >

この作品をシェア

pagetop