結婚願望のない男
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その後、店員に申し訳なさそうに「閉店です」と言われるまで、私たちは他愛ない会話をして過ごした。結構長い時間滞在していたはずなのに、まだまだ足りない。弓弦と離れたくなかった。
「家まで…送ってくよ。ここから歩ける距離だろ?」と弓弦が言うので、彼も同じ気持ちでそう言ってくれてたら嬉しいなあ…と思う。
私たちはどちらからともなく、手を繋いで歩いた。
「私のマンション…ここだから」
こんなにも自宅に着きたくない帰り道があるだろうかと思いながら歩いて、とうとう自宅に着いてしまった。
「じゃあここで──」
弓弦はそう言いながらも、手を離さない。
「…?」
弓弦を見上げると、熱っぽい目で私を見ていてドキっとした。
「…なあ、キスしても…いい?」
「えっっ!??」
突然すぎる申し出だ。
「こ、ここで?さすがにこんなオープンな場所では…っ」
私は慌てて周囲を見渡した。私たちが立っているのはマンション前の薄暗い歩道。歩行者はいなさそうだけど…。
「誰も歩いてないし、車も来てないし。問題ないだろ?」
「こ、今度デートで個室のあるお店に行くとか、どちらかの家に行くとかして人目のないところで…」
「そんなに待てるか、バカ」
弓弦が私の顎をぐいとつかんで、あっ、と思ったらもう、私は彼と口づけをしていた。
「…んっ」
甘いワインの香りのする柔らかい唇が、私の唇に重なる。そして、ちゅっと短い音を立ててから、彼の唇は香りを少しだけ残してすぐに離れた。表面が軽く触れただけの、一瞬の出来事だった。
こんな場所でキスなんて困ると思ったはずなのに、私は彼の唇が一瞬で離れてしまったことに寂しさを感じた。思えば、この人のことを素敵だと思ったのは6月に彼の実家に行った時だ。およそ三か月間、ずっと片想いをしていたのだ。こんな短いキスだけで、気持ちが収まるわけが──。
「…ごめん、俺、ちょっと酔ってるな。普段はこのぐらいじゃ酔わないんだけど…」
きっと彼も、普段こんなところでキスをするようなタイプではないんだろう。自分の行動に顔を赤くして戸惑っている彼の手を、私は強く握り返した。
「…私もたぶん、酔ってると思う…。だから、弓弦」
「ん?」
「キス、もう一回して…」
もうすべてをお酒のせいにしてしまおう。もう一度あの柔らかい、ワインの香りのする唇が欲しい。我慢なんてできなかった。
「ば、…」
弓弦は一瞬たじろいで、再度周囲に人がいないことを確認し──
また、私に口づけた。
今度のキスは、もう二人ともためらいがなくなっていた。
彼が舌を割り入れて、私もそれを、自ら口を開いて受け入れた。そのまま溶け合って一つになってしまいそうなぐらい…甘いキスだった。
「あんたに…出会えてよかった」
キスの合間に、苦しそうに息を吐きながら弓弦がぽつりと言った。
「俺の人生、今日で確実に大きく変わったと思う。良い方向に。…あんたのおかげだ」
「…買いかぶりすぎよ。私は何もしてないもの。それに、私たち二人は今日始まったばっかりなんだから」
「…でも、なんか始まったばかりって感じしないな。付き合って三か月じゃないかと思うくらいには、あんたのこと知ってるし」
「…レンタル彼女やった時に綿密に打ち合わせしたから、お互いの趣味とかは結構知ってるものね」
「そうだ。レンタル彼女の時に用意した偽のエピソードあるだろ。どこにデートしに行ったとか、週末はどう過ごしてるかとか…。あれ、全部実行しよう」
「素敵!あれ、結構乙女の夢を詰め込んでたから、現実になったら最高だわ」
私は弓弦の背中に回した腕に力を込めた。弓弦も、それに応えるように私を強く抱きしめる。
「遥。これからは本当の恋人同士として…たくさん思い出を作って行こう」
「うん、楽しみにしてるね…弓弦」
私たちは最後にもう一度、軽く口づけた。