それでも僕らは夢を描く
ある日、学校から帰ると妙に家中が荒れていた。
父が酒を飲んで暴れるのは日常茶飯事だから、家が荒れていること自体に違和感はない。でも、まだ父が帰ってきていない時間帯に荒れていたものだから思わず首を傾げた。
「昨日ちゃんと片づけたはずなんだけどなぁ」
ランドセルを部屋に置き、僕は階段を降りてリビングに向かった。
そこで、信じられないものを目にする。
「もう嫌!」
リビングでは、お母さんが泣き叫びながらテレビや本棚を蹴飛ばしていた。
お酒を飲んだ様子はない。そもそもお母さんはお酒を飲めない。
ならば、どうして暴れるのだろう。
僕は理解が追い付かないまま、必死になってお母さんに抱きついた。
「お母さん! どうしたの!」
「放っておいて!」
お母さんは僕を突き飛ばし、テーブルの上に置かれていたカップを壁に投げつけた。カップが割れる甲高い音が部屋中に響き、僕はびくっとしてしまう。
「もう……我慢の限界なのよ!」
息を荒げながら、お母さんは泣き言を発する。
なんとかして元気を出してもらわなきゃいけない。
僕は必至で頭を働かせた。
とはいえ、僕がお母さんを元気づける手段などひとつしかない。
「そうだ! 今日もテストで満点とったんだよ! 絵もたくさん描いたよ!」
部屋から答案用紙と絵が描かれた紙を持ってきて、お母さんに見せつける。
満点をとるといつも喜んでくれるから、きっと今回も褒めてくれる。
すぐに落ち着いて、優しく僕を撫でてくれる。
そう思っていた。
「そんなのどうだっていいわよ!」
しかし予想とは裏腹に、お母さんはいとも容易く僕の言葉をはねのけた。
僕の手から答案用紙と絵を乱暴に奪い取り、それをくしゃくしゃに潰すと、お母さんはそれをゴミ箱に向けて勢いよく投げつけた。
……どうして、そんなことをするのだろう。
お母さんはいつだって僕の絵を喜んでくれていたのに。テストだっていい点をとれば褒めてくれたのに。
なのに、なのに。
ゴミ箱の縁に当たり、丸まった僕の絵は虚しく床に転がる。
それを見て、僕はやっと理解した。
他でもない僕自身が、お母さんに負担をかけてしまっていたのだと。
喜ばせているつもりだった。
でも、違った。
僕がやっていたのは「褒めなくてはいけない」という強迫観念を母に植え付ける行為だったのだ。
「ごめん……」
くしゃくしゃになって転がるゴミをあるべき場所に放り込み、僕は部屋に戻る。そして、声を押し殺して涙を流した。
その日以来、母が笑うことはなくなった。
暴れた父の後始末をすることもなく、家事もせず、壊れて何も映らないテレビを一日中眺めるだけの人形になってしまった。
こうして、幸せだった僕の家族はバラバラになった。
それからの日々は、ただの地獄だった。
暴れる父の後始末も、家事も、全部僕が一人でやった。
新学期になると学校に提出する雑巾も一人で用意した。
お母さんが壊れたのは、僕のせい。
だから、お母さんの分まで僕が頑張らなくちゃいけない。徹底的に手のかからない子にならなければいけない。
本当は、もっと甘えたかった。
テストでいい点を取れば褒めてもらいたかったし、休みの日にはみんなで旅行にも行きたかった。
絵を描けば「上手だね」って褒めてもらいたかった。
授業参観にも来てほしかったし、運動会で一緒にお弁当を食べたかった。
でも、ダメなんだ。
僕はいい子でいなきゃいけない。
わがままを言ってはいけない。
だから、全部我慢した。
中でも、授業参観の日は特につらかった。
「帰りにアイスクリーム買ってあげよっか」
「うん!」
優しそうな親と会話をするクラスメイトの幸せそうな顔が凄く羨ましくて、気が狂いそうになる。
「石丸くんのお母さんは来ないの?」
無邪気に尋ねてくるクラスメイトを適当にあしらって、僕は一人で家に帰る。
お母さんはね、来ないんじゃなくて、来れないんだ。
壊れてしまっているから。
そんなこと、言えるわけがない。
運動会の日だって同じだ。
家族でお弁当を食べる子を見ながら、僕は体育館の陰でひとりぼっちでお弁当を食べた。
一緒に食べないかと誘われることもあった。
でも、できなかった。
優しい家族に囲まれて幸せそうに笑う子を見ると、嫉妬で気が狂いそうになる。その渦中でご飯を食べる精神力なんて僕にはない。
僕はただ、生きるだけ必死だった。
僕だけはしっかりしなきゃいけない。
僕だけは壊れてはいけない。
僕だけは、僕だけは――――。
そんな強迫的な思考にとりつかれたまま、苦痛だけが心の中に降り積もっていく。
それでも、泣き言は言わなかった。
どれだけつらくても、どれだけ苦しくても、足掻き続けた。
絵だって、必死に描き続けた。
父も母も僕の絵なんて喜んではくれない。
それどころか、二人ともまるでゴミのようにそれを扱う。
でも、今更絵を嫌いになんてなれなかった。
絵を描いている間だけは、漫画を描いている間だけは、幸せな過去を思い出すことができる。
大げさに飾るお父さん、嬉しそうに褒めてくれるお母さん。
もう壊れてしまった大切な家族。
そんな記憶に縋りつく唯一の手段が絵を描くという行為だった。
たったそれだけを心の支えに、僕は小学校時代を過ごしていた。
正直、淡い希望もあった。
ゴミのように絵を捨てられた後も、もっと上手くなれば喜んでもらえるのではないかなどと考えていたのだ。
現実から逃れるため、そしてもう一度褒めもらうため。それだけのために僕は漫画家を目指し始める。
そんな僕は学校ではいつも一人だった。
声をかけてくれる子がいなかったわけじゃない。
心配してくれる大人がいなかったわけでもない。
手を差し出してくれる人はいくらでもいた。
……でも、そういう人たちには決まって家族がいた。
そういう人たちには笑顔を向けてくれる仲間がいた。
「大変だね、大丈夫?」
「つらいことがあったらいつでも言うんだぞ」
「何かあったら助けるよ」
そんな言葉を聞くたびに、はらわたが煮えくり返りそうになる。
……お前たちに、お前たちなんかに、僕の何がわかるというんだ。
優しい家族に囲まれて、普通に生きていれば普通に生活できるようなぬるま湯に浸かってきたくせに。
そんな人間が僕を救う? 冗談じゃない。
信じられるわけがない。
だから、僕は差し伸べられた手を握ることは絶対にしなかった。
幸せな人間に、僕の気持ちが理解できるとは到底思えなかったから。
本当に寂しい時や悲しい時、どうしようもなく泣きたい時に、誰にも傍にいてもらえなかった僕の気持ちは、彼らにはわからない。
思い返せば、ただの嫉妬だったんだろう。逆恨みもいいところだ。
でも、それでも僕は、誰も信じることができなかった。
ボロボロになった心を無理矢理支え、独りで生きていた。
小学校を卒業し、中学校に入学しても、家庭環境が改善することはなかった。
もう、限界だった。
病は気からとはよく言ったもので、中学に入ってからは慢性的な頭痛に苦しめられていた。
いつまでこの地獄が続くんだろう。
いつまで苦しみ続ければいいんだろう。
そんなことばかりを考えていた。いっそ両親を殺して自分も死んでしまおうかとさえ思った。
中学校も、僕にとっては地獄のような場所だった。
「あ、あの。石丸くん……。よかったら、一緒に帰らない……?」
学校に行けば、話したこともない女の子に誘われる。時にはいきなり告白されることもあった。
周りの男子たちからは羨ましがられたりもしたけれど、当の僕自身はそれどころではなかった。
毎日生きるだけで必死だというのに、恋愛などできるわけがない。
迷惑を通りこして、目障りだった。
長い間人とのコミュニケーションを取っていなかった僕に、もはや人を信じる気力はない。そんなものがあるのなら、とっくに誰かに助けを求めている。
長い苦しみの末に、僕の心は幸福な者を無差別に憎むだけの化け物になっていた。
「二度と話しかけないで」
だから僕は、彼女らを突き放す。
毎日友達と群れて、楽しそうに笑う彼女たちが本当に嫌いだった。
突き放された彼女たちはみんな、示し合わせたかのように泣き喚く。その光景さえ目障りだった。泣き叫ぶ母の姿を思い出してしまうから。
「石丸! どうしてそんなことを言うんだ! 謝れ!」
僕を怒鳴りつける生徒指導の教員も嫌いだ。声を荒げて暴力を振るう父を思い出すから。
家にも学校にも、僕の居場所はなかった。
誰も僕を理解してくれない。
でもそれは自業自得だ。
差し伸べられた手を振り払ったのも、僕を求めてくれた人を突き放したのも、紛れもなく僕なのだから。
たまに、自分で自分が分からなくなる時がある。
僕は孤独で寂しくて、ずっと救いを求めているのに、いざ手を差し出されたら払いのけてしまう。嫌悪感を抱いてしまう。
そんな自分がたまらなく嫌いだった。
誰も信じられず、暖かい過去に縋るためだけに漫画を描き続ける日々。
しかし、運命はそんな僅かな安らぎすらも奪い去っていく。
父が酒を飲んで暴れるのは日常茶飯事だから、家が荒れていること自体に違和感はない。でも、まだ父が帰ってきていない時間帯に荒れていたものだから思わず首を傾げた。
「昨日ちゃんと片づけたはずなんだけどなぁ」
ランドセルを部屋に置き、僕は階段を降りてリビングに向かった。
そこで、信じられないものを目にする。
「もう嫌!」
リビングでは、お母さんが泣き叫びながらテレビや本棚を蹴飛ばしていた。
お酒を飲んだ様子はない。そもそもお母さんはお酒を飲めない。
ならば、どうして暴れるのだろう。
僕は理解が追い付かないまま、必死になってお母さんに抱きついた。
「お母さん! どうしたの!」
「放っておいて!」
お母さんは僕を突き飛ばし、テーブルの上に置かれていたカップを壁に投げつけた。カップが割れる甲高い音が部屋中に響き、僕はびくっとしてしまう。
「もう……我慢の限界なのよ!」
息を荒げながら、お母さんは泣き言を発する。
なんとかして元気を出してもらわなきゃいけない。
僕は必至で頭を働かせた。
とはいえ、僕がお母さんを元気づける手段などひとつしかない。
「そうだ! 今日もテストで満点とったんだよ! 絵もたくさん描いたよ!」
部屋から答案用紙と絵が描かれた紙を持ってきて、お母さんに見せつける。
満点をとるといつも喜んでくれるから、きっと今回も褒めてくれる。
すぐに落ち着いて、優しく僕を撫でてくれる。
そう思っていた。
「そんなのどうだっていいわよ!」
しかし予想とは裏腹に、お母さんはいとも容易く僕の言葉をはねのけた。
僕の手から答案用紙と絵を乱暴に奪い取り、それをくしゃくしゃに潰すと、お母さんはそれをゴミ箱に向けて勢いよく投げつけた。
……どうして、そんなことをするのだろう。
お母さんはいつだって僕の絵を喜んでくれていたのに。テストだっていい点をとれば褒めてくれたのに。
なのに、なのに。
ゴミ箱の縁に当たり、丸まった僕の絵は虚しく床に転がる。
それを見て、僕はやっと理解した。
他でもない僕自身が、お母さんに負担をかけてしまっていたのだと。
喜ばせているつもりだった。
でも、違った。
僕がやっていたのは「褒めなくてはいけない」という強迫観念を母に植え付ける行為だったのだ。
「ごめん……」
くしゃくしゃになって転がるゴミをあるべき場所に放り込み、僕は部屋に戻る。そして、声を押し殺して涙を流した。
その日以来、母が笑うことはなくなった。
暴れた父の後始末をすることもなく、家事もせず、壊れて何も映らないテレビを一日中眺めるだけの人形になってしまった。
こうして、幸せだった僕の家族はバラバラになった。
それからの日々は、ただの地獄だった。
暴れる父の後始末も、家事も、全部僕が一人でやった。
新学期になると学校に提出する雑巾も一人で用意した。
お母さんが壊れたのは、僕のせい。
だから、お母さんの分まで僕が頑張らなくちゃいけない。徹底的に手のかからない子にならなければいけない。
本当は、もっと甘えたかった。
テストでいい点を取れば褒めてもらいたかったし、休みの日にはみんなで旅行にも行きたかった。
絵を描けば「上手だね」って褒めてもらいたかった。
授業参観にも来てほしかったし、運動会で一緒にお弁当を食べたかった。
でも、ダメなんだ。
僕はいい子でいなきゃいけない。
わがままを言ってはいけない。
だから、全部我慢した。
中でも、授業参観の日は特につらかった。
「帰りにアイスクリーム買ってあげよっか」
「うん!」
優しそうな親と会話をするクラスメイトの幸せそうな顔が凄く羨ましくて、気が狂いそうになる。
「石丸くんのお母さんは来ないの?」
無邪気に尋ねてくるクラスメイトを適当にあしらって、僕は一人で家に帰る。
お母さんはね、来ないんじゃなくて、来れないんだ。
壊れてしまっているから。
そんなこと、言えるわけがない。
運動会の日だって同じだ。
家族でお弁当を食べる子を見ながら、僕は体育館の陰でひとりぼっちでお弁当を食べた。
一緒に食べないかと誘われることもあった。
でも、できなかった。
優しい家族に囲まれて幸せそうに笑う子を見ると、嫉妬で気が狂いそうになる。その渦中でご飯を食べる精神力なんて僕にはない。
僕はただ、生きるだけ必死だった。
僕だけはしっかりしなきゃいけない。
僕だけは壊れてはいけない。
僕だけは、僕だけは――――。
そんな強迫的な思考にとりつかれたまま、苦痛だけが心の中に降り積もっていく。
それでも、泣き言は言わなかった。
どれだけつらくても、どれだけ苦しくても、足掻き続けた。
絵だって、必死に描き続けた。
父も母も僕の絵なんて喜んではくれない。
それどころか、二人ともまるでゴミのようにそれを扱う。
でも、今更絵を嫌いになんてなれなかった。
絵を描いている間だけは、漫画を描いている間だけは、幸せな過去を思い出すことができる。
大げさに飾るお父さん、嬉しそうに褒めてくれるお母さん。
もう壊れてしまった大切な家族。
そんな記憶に縋りつく唯一の手段が絵を描くという行為だった。
たったそれだけを心の支えに、僕は小学校時代を過ごしていた。
正直、淡い希望もあった。
ゴミのように絵を捨てられた後も、もっと上手くなれば喜んでもらえるのではないかなどと考えていたのだ。
現実から逃れるため、そしてもう一度褒めもらうため。それだけのために僕は漫画家を目指し始める。
そんな僕は学校ではいつも一人だった。
声をかけてくれる子がいなかったわけじゃない。
心配してくれる大人がいなかったわけでもない。
手を差し出してくれる人はいくらでもいた。
……でも、そういう人たちには決まって家族がいた。
そういう人たちには笑顔を向けてくれる仲間がいた。
「大変だね、大丈夫?」
「つらいことがあったらいつでも言うんだぞ」
「何かあったら助けるよ」
そんな言葉を聞くたびに、はらわたが煮えくり返りそうになる。
……お前たちに、お前たちなんかに、僕の何がわかるというんだ。
優しい家族に囲まれて、普通に生きていれば普通に生活できるようなぬるま湯に浸かってきたくせに。
そんな人間が僕を救う? 冗談じゃない。
信じられるわけがない。
だから、僕は差し伸べられた手を握ることは絶対にしなかった。
幸せな人間に、僕の気持ちが理解できるとは到底思えなかったから。
本当に寂しい時や悲しい時、どうしようもなく泣きたい時に、誰にも傍にいてもらえなかった僕の気持ちは、彼らにはわからない。
思い返せば、ただの嫉妬だったんだろう。逆恨みもいいところだ。
でも、それでも僕は、誰も信じることができなかった。
ボロボロになった心を無理矢理支え、独りで生きていた。
小学校を卒業し、中学校に入学しても、家庭環境が改善することはなかった。
もう、限界だった。
病は気からとはよく言ったもので、中学に入ってからは慢性的な頭痛に苦しめられていた。
いつまでこの地獄が続くんだろう。
いつまで苦しみ続ければいいんだろう。
そんなことばかりを考えていた。いっそ両親を殺して自分も死んでしまおうかとさえ思った。
中学校も、僕にとっては地獄のような場所だった。
「あ、あの。石丸くん……。よかったら、一緒に帰らない……?」
学校に行けば、話したこともない女の子に誘われる。時にはいきなり告白されることもあった。
周りの男子たちからは羨ましがられたりもしたけれど、当の僕自身はそれどころではなかった。
毎日生きるだけで必死だというのに、恋愛などできるわけがない。
迷惑を通りこして、目障りだった。
長い間人とのコミュニケーションを取っていなかった僕に、もはや人を信じる気力はない。そんなものがあるのなら、とっくに誰かに助けを求めている。
長い苦しみの末に、僕の心は幸福な者を無差別に憎むだけの化け物になっていた。
「二度と話しかけないで」
だから僕は、彼女らを突き放す。
毎日友達と群れて、楽しそうに笑う彼女たちが本当に嫌いだった。
突き放された彼女たちはみんな、示し合わせたかのように泣き喚く。その光景さえ目障りだった。泣き叫ぶ母の姿を思い出してしまうから。
「石丸! どうしてそんなことを言うんだ! 謝れ!」
僕を怒鳴りつける生徒指導の教員も嫌いだ。声を荒げて暴力を振るう父を思い出すから。
家にも学校にも、僕の居場所はなかった。
誰も僕を理解してくれない。
でもそれは自業自得だ。
差し伸べられた手を振り払ったのも、僕を求めてくれた人を突き放したのも、紛れもなく僕なのだから。
たまに、自分で自分が分からなくなる時がある。
僕は孤独で寂しくて、ずっと救いを求めているのに、いざ手を差し出されたら払いのけてしまう。嫌悪感を抱いてしまう。
そんな自分がたまらなく嫌いだった。
誰も信じられず、暖かい過去に縋るためだけに漫画を描き続ける日々。
しかし、運命はそんな僅かな安らぎすらも奪い去っていく。