それでも僕らは夢を描く
思い出すのは中学一年生の秋。
 夏の暑さが過ぎ去り、段々と涼しい風が吹き始めた頃だ。
 その日、僕は線路沿いの道を歩いて下校していた。
 腰ほどの高さしかないフェンス一枚で線路と通路を仕切られただけの長い一本道。
 歩いていると遠くから踏切の音が聴こえ、すぐに電車が通るのだとわかった。
 ――それは、本当に前触れもなく、唐突に訪れた不幸だった。
 電車が近づくと同時に、僕のすぐ前方に立っていた男性が、待っていたと言わんばかりにフェンスを乗り越えた。
 そして、線路の中央に立ち尽くす。
 一瞬の出来事だった。
 電車の急ブレーキが間に合うはずもなく、男の肢体は車輪と線路に巻き込まれ、バラバラに飛び散った。飛び込み自殺だ。
 黒板を爪で引っ掻いたような本能的に不快なブレーキ音はまるでその男性の死体が悲鳴をあげているみたいで、すぐに鳥肌が立った。
 ……見てしまった。
 腕が千切れ、頭がつぶれ、首が切断されるその瞬間を。
 僕ははっきりとこの目に焼きつけてしまった。
 そして千切れて飛んだ男の腕が、僕のすぐ横のフェンスに引っかかった。
 瞬間、堪えきれない吐き気が腹の底から湧き出てくる。
 僕はその場で胃の中の物を全て吐き出した。
 生きている人間が、一瞬でただの物体になる。
 その光景は、あまりにも刺激が強かった。
 限界の限界、ギリギリのところで辛うじて保たれていた僕の心は、どこの誰とも知らない男の自殺によって、あっけなく壊された。
 どうして、いつも僕なんだ。
 父が病気になって、おかしくなって、あっという間に僕の家族はバラバラになった。
 それでもいつかは報われると思って足掻き続けていたのに、どうして僕ばかりがこんな目に遭わなくちゃいけないんだ。
 家族がバラバラになっただけでなく、運さえ僕を見放すのか。
 ずっと独りで頑張ってきた。なのに、なのに……。
 運命はどこまで僕をあざ笑えば気が済むのだろう。
 瞼の裏に焼き付いた男の死に様が、何度も繰り返し頭をよぎる。
 家に戻った僕は、荒れ果てたリビングに一瞥もくれず、まっすぐ自分の部屋にこもった。そして、誰にも聞かれないよう布団をかぶり、静かに涙をこぼす。
 もう、疲れた。
 着替えも宿題も何もせず、暴れる父の怒声を聴きながら、静かに眠りにつく。



 翌日から、僕は学校に行かなくなった。
 頑張るのが馬鹿らしくなったのだ。
 足掻き続けたところで、苦い汁をすするのはいつも僕なのだから。
 もう、何もかもを諦めていた。
 一日中部屋に閉じこもり、時間の許す限り眠り続けた。
 涙で枕がかびるほど涙を流し、多くの時間を溝に捨てた。
 漫画もすっかり手につかなくなった。
 僕は認めた。自分の境遇を、救いの無さを。
 現実逃避をやめ、家族にくだらない幻想を抱くのもやめよう。
 無力感と絶望感に支配され、腐っていく自分の精神を僕はぼうっと眺めていた。


 ――僅かな光が差し込んできたのは、ちょうどそんな時だった。
 幸か不幸か、僕が引きこもるようになってから、お父さんが酒に潰れる頻度が目に見えて減ってきたのだ。
 家事をやらなくなった僕の代わりに食事を作るようになり、

「今まですまなかった」

 という手紙と共に僕の部屋の前に食事を置いてくるようにさえなった。
 僕や母の様子を見て、ようやく自分が何をしでかしたのかを理解したらしい。
 今までずっと、五年以上も暴れ続けていたことに少なからず怒りはあった。
 五年という歳月は、自分のやった行為の愚かしさに気付くには長すぎる時間だ。
 お前のせいで僕の人生はめちゃくちゃになったんだと言って殴りたくもなった。
 でも、それ以上に、僕は嬉しかった。
 もう諦めていたというのに、優しい父が帰ってきたのだから。
 そして、帰ってきたのは父だけではなかった。

「亮……」

 ある日、部屋に閉じこもっているとノックと共に母が訪れてきた。
 その名前を呼ばれるのは、いや、母の声を聴いたのは、実に五年ぶりだった。
 僕の名前、まだ覚えていたんだ。
 母が言葉を発したことよりも、そっちに驚いた。
 一日中何も映らないテレビを眺めるだけの母。髪の毛もボサボサ、お風呂どころか食事さえままならないあの母が、僕の名前を呼ぶなんて。
 てっきり認知症のような状態かと思っていた。

「どうしたの」

 驚きつつも返すと、

「ごめんね、亮」

 今にも消えそうなかすれた声で、そう言われた。
 何に対して謝っているのか、僕には全くわからなかった。
 たった一言の謝罪。それを口にすると母はすぐに一階に降りて行った。
 母が部屋を去っていく際、その背中を見た僕の心臓は何故だかはちきれそうなほど激しく脈打っていた。
 事態を飲みこめないという困惑、今頃になって謝ってきたことに対する怒り、そして――。

「久しぶりに、呼ばれた気がする」

 ――名前を呼ばれた喜び。
 その日以降、母は段々と言葉を話すようになってきた。
 きっと父がお酒をやめたのがよかったのだろう。
 父はすっかり元通りになっていた。
 母も元通りとはいかないまでも、ずっと元気になった。
 僕が諦めた途端に事態が好転したことに若干の腹立たしさはあったけれど、どうでもよかった。
 あれだけ望んだ家族が戻りつつある。
 その日、僕は久しぶりにペンを握った。
 家族の思い出に縋るという逃避行動のためではなく、自然と創作意欲が湧いてきたのだ。
 体はすっかりなまっていて、ベッドから机に移動するのさえ気怠かったものの、不思議と心は軽かった。
 今なら、褒めてくれるかもしれない。
 ふと、脳裏にそんな考えがよぎった。
 僕はずっと寂しかったのだ。褒められたいと思うのは当然のこと。
 一年のブランクがあるとはいえ、僕の絵は昔とは比べ物にならないクオリティだった。
 僕はすぐに一枚のイラストを仕上げ、それを持って一階へ降りる。
 そしてリビングのドアノブに手をかけた時、両親の話し声が聞こえた。

「もう、離婚しましょう」

 一瞬で、全身が固まった。
 ドアノブを握る手に力が入るけれど、ドアをあけることができない。
 引きこもっていた間に、ドアさえ開けられないほど筋力が落ちていたのだろうか。いや、そんなはずはない。
 原因は明白だった。
 僕は、怯えていた。
 このドアを開けると、取り返しのつかないことになるのではないかと、そんな恐怖が全身を硬直させていた。
 ……せっかく元通りになれると思ったのに、どうして?
 今なら、またみんなで旅行に行けるじゃないか。

「頼む、もう一度信じてくれ」

 ドアの向こうからは、父の縋り付くような声。
 僕は咄嗟に二階へ逃げた。
 父の言葉に対する母の返答が怖かったのだ。
 自分の部屋で、僕は手に持っていたイラストをじっと見つめた。

「やっぱり、僕にはこれしかない」

 父が回復し、母が話すようになってから、僕は改めて実感した。
 僕は家族が大好きだ。
 あの二人が離婚するなんて絶対に認めるわけにはいかない。
 そう思った途端、闘志が湧いてきた。
 僕にできることと言えば、漫画を描くことくらい。
 ならば、その漫画をとことん突き詰めてやろう。
 立派な漫画家になって、きっかけをくれたのはあなたたちですと、あの二人に伝えるんだ。
 お父さんだけでも、お母さんだけでもダメだったのだと、あなたたちは二人一緒じゃなければいけないのだと、そう伝えよう。
 そうすればきっと――――

「また、昔みたいに笑ってくれるかもしれない」

 僕の絵を飾って、家族みんなで笑いあえるかもしれない。
 僕は再びペンを握りしめた。
 幼稚園の頃は、絵を描けば喜んでくれるから描いていた。
 小学生の頃は、現実逃避のために絵を描いていた。
 ならば今度は、家族を繋ぎとめるために、絵を描こう。
 それから僕はくる日もくる日も漫画を描き続けた。
 階下から聞こえてくる母の怒声に急かされ、早く漫画家にならなければと、焦燥感に駆られる。
 父が離婚に反対している間に、成果をあげなければならない。
 僕にはもう、それしかないから。
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