それでも僕らは夢を描く
途端に嬉しさがこみ上げてくる。
「ありがとう!」
私は後ろから彼に抱きつこうとした。
――が、触れないことをすっかり忘れていた。
私は彼の体をすり抜け、勢いよく顔から机に衝突した。
鈍い音とともに顔面に痛みが走る。
「早速邪魔なんだけど……」
「ご、ごめんね!」
慌てて机から離れる。
危ない危ない。いきなり追い出されるところだった。気をつけよう。
それにしても、どうやって仲良くなればいいのだろう。この子を救う以前に、円滑なコミュニケーションをとれなければ話にならない。
猫ちゃんは相性がいいから大丈夫と言っていたけれど、今のところそんな節は全くないし、どちらかと言えば悪いとさえ思える。
このままじゃいけない。
何か、少しでも仲が進展するような話題を振らなければ。
「ねぇ、亮くんって呼んでもいい?」
「好きにすれば」
「私のことはこころって呼んでいいよ」
「嫌だ」
あっけなく会話が途切れた。
初対面の人と同じ空間にいて、なおかつ会話がないというのはとても気まずい。向こうはそんなこと思っていなさそうだけど。
「亮くんは何年生なの?」
「中二」
「そっかー、成長期だね」
「うん」
……どうしよう、全く会話が続かない。
亮くんはこちらへ振り返ることさえなく、淡々と何かを書き続けている。
あまりに適当な返事なものだから私の話をちゃんと聞いているのか不安になってしまう。
そういえば、さっきからずっと机と向き合っているけれど何を書いているんだろう。
「ねね、何書いてるの?」
会話も兼ねて、後ろから机を覗き込んだ。
「勝手に見ないで」
亮くんは咄嗟に紙を手で覆うが、成長途中の男の子の手では隠しきれず、いとも簡単に見ることができた。
しかし、見たと同時に胸の内に嫌な感覚が湧き上がってくる。
「おーすごい、漫画描いてるんだね」
口ではそんなことを言いながら、心の中はとても穏やかとは言えない状況だった。
漫画家という夢を諦め、ずっとそのコンプレックスを抱いてきた私にとって、目の前にあるそれはとても刺激が強い。
進むのを断念した道に今もなお人がいるのだと思うと、簡単に投げ出した自分がたまらなく情けなくなってくる。
もちろん、だからと言ってその道の人を妬んだりするつもりはない。
今でも漫画は好きだし、暇な時にはよく読んでいる。
ただ、もう自分で描く気にはなれないというだけ。
「見ないで」
亮くんは原稿用紙に敷いてあった緑の下敷きを抜き取り、原稿の上に被せる。
何で隠す必要があるんだろう。
一度は漫画を描いていたからこそわかる、この子は上手い。
子供にしては上手いだとか、中学生にしては上手いなんていう括りではなく、漫画業界の第一線に出しても活躍できるような、そんな上手さ。
「亮くんすっごく絵上手だね。漫画家さんなの?」
「違う」
「じゃあ漫画家さんになりたいの?」
「それも違う」
あ、違うんだ。
もったいない。こんなに上手いのなら絶対なれると思うのに。
そんなことを考えていると、亮くんは少しばかり照れ臭そうに続ける。
「なりたいんじゃなくて、なる。絶対に」
「おぉ……」
予想外の言葉につい息を漏らす。
「……なに? 悪い?」
私は慌てて首を横に振る。
悪くない、何も悪くない。
それどころか、かっこいいとさえ思う。
夢を夢のままで終わらせない。願ったからには必ず叶える。そんな決意が見てとれる言い方だったから。
「絵を描くの、好きなの?」
「……うん。僕にはもうこれしかないから」
一瞬、何かを躊躇したような表情を見せてから、力なくそう言った。
何故だろう、心なしか寂しそうにも見える。
好きだというのなら、どうしてそんな言い方をするのだろう。
亮くんの絵は十人が見れば十人ともが上手いと口を揃えるようなレベル。私がここに来るずっと前から努力していたのがひしひしと伝わってくる。
描えがかれたキャラクターの表情はとても活き活きとしていて、まるで魂でも宿っているような錯覚に陥る。あるいは本当に宿っているのかもしれない。
絵が好きでなければこうは描かけない。
だから含みのある言い方をした亮くんに少しだけ違和感を覚えた。
もしかしたら踏み込んでほしくない領域の話だったのかもしれない。
「凄いなぁ。いつから絵を描いてるの?」
一度話を振ってしまった手前、急に話を変えるのも申し訳ないので、深く踏み込みすぎないように注意しながら会話をしよう。
悩み事があるのならすぐにでも聞いてあげたい気持ちはあるけれど、それは私のエゴだ。私が彩月と疎遠になった原因がそれなのだから。
だから少しずつ心の距離を近づけて、いつか本人が話したくなった時に優しく聞いてあげるのが今は一番だと思う。
「絵を描き始めたのは幼稚園の頃。漫画家を目指し始めたのは小学校に入ってから」
それを聞いて納得した。
どうりで上手いわけだ。
それにしても、漫画の話を振った途端に口数が多くなったのは私の気のせいだろうか。
あまり踏み込まない方がいい話題だと思ったのだけど、意外とそうでもないらしい。
「ねえ、さっきの絵もう一回見せてよ!」
「やだよ。知り合って間もない人に絵を見せるのって何か恥ずかしいし」
「でも漫画家になったら顔も知らない大勢の人に絵を見せることになるんだよ? 私にも見せられないのに漫画家になれるのかなー?」
私が茶化すように言うと、亮くんはむっとした表情になった。
何も言い返せないのを悔しがるような、そんな表情。可愛い。
「ほら、早く早く!」
「わかった……。少しだけだよ」
亮くんが渋々と下敷きを退けると、私は食い入るように絵を眺めた。
少女漫画ばかりを描いていた私とは反対に、亮くんの絵はいかにも少年漫画といったものだった。
ローブを羽織った魔法使いが巨大な龍を討伐するシーン。
魔法を唱えるキャラの鬼気迫る表情が言葉では言い表せない緊張感を生み出していた。
「すっごい……! 亮くん天才だよ! 絶対漫画家になれるよ!」
「こ、これくらいは描けて当然だよ」
亮くんはさも当然のように言ってのけたが、私は彼の口の端が歪んでいるのを見逃さなかった。
これは褒められて嬉しいのを必死に隠している顔だ。
「亮くん口元がニヤついてるよ」
「ニヤついてないから。事故って目ん玉おかしくなったんじゃない?」
ムキになって張り合ってくる亮くんの態度は歳相応のそれで、私は密かに安堵した。妙に大人びていたものだから、こうして幼い一面を見ると可愛い弟ができたような気がして微笑ましくなる。
よかった、口は悪いけれど、根は素直な子みたいだ。
猫ちゃんの言った相性がいいという言葉の意味を少しだけ理解した。
この子となら、上手くやっていける気がする。
「ありがとう!」
私は後ろから彼に抱きつこうとした。
――が、触れないことをすっかり忘れていた。
私は彼の体をすり抜け、勢いよく顔から机に衝突した。
鈍い音とともに顔面に痛みが走る。
「早速邪魔なんだけど……」
「ご、ごめんね!」
慌てて机から離れる。
危ない危ない。いきなり追い出されるところだった。気をつけよう。
それにしても、どうやって仲良くなればいいのだろう。この子を救う以前に、円滑なコミュニケーションをとれなければ話にならない。
猫ちゃんは相性がいいから大丈夫と言っていたけれど、今のところそんな節は全くないし、どちらかと言えば悪いとさえ思える。
このままじゃいけない。
何か、少しでも仲が進展するような話題を振らなければ。
「ねぇ、亮くんって呼んでもいい?」
「好きにすれば」
「私のことはこころって呼んでいいよ」
「嫌だ」
あっけなく会話が途切れた。
初対面の人と同じ空間にいて、なおかつ会話がないというのはとても気まずい。向こうはそんなこと思っていなさそうだけど。
「亮くんは何年生なの?」
「中二」
「そっかー、成長期だね」
「うん」
……どうしよう、全く会話が続かない。
亮くんはこちらへ振り返ることさえなく、淡々と何かを書き続けている。
あまりに適当な返事なものだから私の話をちゃんと聞いているのか不安になってしまう。
そういえば、さっきからずっと机と向き合っているけれど何を書いているんだろう。
「ねね、何書いてるの?」
会話も兼ねて、後ろから机を覗き込んだ。
「勝手に見ないで」
亮くんは咄嗟に紙を手で覆うが、成長途中の男の子の手では隠しきれず、いとも簡単に見ることができた。
しかし、見たと同時に胸の内に嫌な感覚が湧き上がってくる。
「おーすごい、漫画描いてるんだね」
口ではそんなことを言いながら、心の中はとても穏やかとは言えない状況だった。
漫画家という夢を諦め、ずっとそのコンプレックスを抱いてきた私にとって、目の前にあるそれはとても刺激が強い。
進むのを断念した道に今もなお人がいるのだと思うと、簡単に投げ出した自分がたまらなく情けなくなってくる。
もちろん、だからと言ってその道の人を妬んだりするつもりはない。
今でも漫画は好きだし、暇な時にはよく読んでいる。
ただ、もう自分で描く気にはなれないというだけ。
「見ないで」
亮くんは原稿用紙に敷いてあった緑の下敷きを抜き取り、原稿の上に被せる。
何で隠す必要があるんだろう。
一度は漫画を描いていたからこそわかる、この子は上手い。
子供にしては上手いだとか、中学生にしては上手いなんていう括りではなく、漫画業界の第一線に出しても活躍できるような、そんな上手さ。
「亮くんすっごく絵上手だね。漫画家さんなの?」
「違う」
「じゃあ漫画家さんになりたいの?」
「それも違う」
あ、違うんだ。
もったいない。こんなに上手いのなら絶対なれると思うのに。
そんなことを考えていると、亮くんは少しばかり照れ臭そうに続ける。
「なりたいんじゃなくて、なる。絶対に」
「おぉ……」
予想外の言葉につい息を漏らす。
「……なに? 悪い?」
私は慌てて首を横に振る。
悪くない、何も悪くない。
それどころか、かっこいいとさえ思う。
夢を夢のままで終わらせない。願ったからには必ず叶える。そんな決意が見てとれる言い方だったから。
「絵を描くの、好きなの?」
「……うん。僕にはもうこれしかないから」
一瞬、何かを躊躇したような表情を見せてから、力なくそう言った。
何故だろう、心なしか寂しそうにも見える。
好きだというのなら、どうしてそんな言い方をするのだろう。
亮くんの絵は十人が見れば十人ともが上手いと口を揃えるようなレベル。私がここに来るずっと前から努力していたのがひしひしと伝わってくる。
描えがかれたキャラクターの表情はとても活き活きとしていて、まるで魂でも宿っているような錯覚に陥る。あるいは本当に宿っているのかもしれない。
絵が好きでなければこうは描かけない。
だから含みのある言い方をした亮くんに少しだけ違和感を覚えた。
もしかしたら踏み込んでほしくない領域の話だったのかもしれない。
「凄いなぁ。いつから絵を描いてるの?」
一度話を振ってしまった手前、急に話を変えるのも申し訳ないので、深く踏み込みすぎないように注意しながら会話をしよう。
悩み事があるのならすぐにでも聞いてあげたい気持ちはあるけれど、それは私のエゴだ。私が彩月と疎遠になった原因がそれなのだから。
だから少しずつ心の距離を近づけて、いつか本人が話したくなった時に優しく聞いてあげるのが今は一番だと思う。
「絵を描き始めたのは幼稚園の頃。漫画家を目指し始めたのは小学校に入ってから」
それを聞いて納得した。
どうりで上手いわけだ。
それにしても、漫画の話を振った途端に口数が多くなったのは私の気のせいだろうか。
あまり踏み込まない方がいい話題だと思ったのだけど、意外とそうでもないらしい。
「ねえ、さっきの絵もう一回見せてよ!」
「やだよ。知り合って間もない人に絵を見せるのって何か恥ずかしいし」
「でも漫画家になったら顔も知らない大勢の人に絵を見せることになるんだよ? 私にも見せられないのに漫画家になれるのかなー?」
私が茶化すように言うと、亮くんはむっとした表情になった。
何も言い返せないのを悔しがるような、そんな表情。可愛い。
「ほら、早く早く!」
「わかった……。少しだけだよ」
亮くんが渋々と下敷きを退けると、私は食い入るように絵を眺めた。
少女漫画ばかりを描いていた私とは反対に、亮くんの絵はいかにも少年漫画といったものだった。
ローブを羽織った魔法使いが巨大な龍を討伐するシーン。
魔法を唱えるキャラの鬼気迫る表情が言葉では言い表せない緊張感を生み出していた。
「すっごい……! 亮くん天才だよ! 絶対漫画家になれるよ!」
「こ、これくらいは描けて当然だよ」
亮くんはさも当然のように言ってのけたが、私は彼の口の端が歪んでいるのを見逃さなかった。
これは褒められて嬉しいのを必死に隠している顔だ。
「亮くん口元がニヤついてるよ」
「ニヤついてないから。事故って目ん玉おかしくなったんじゃない?」
ムキになって張り合ってくる亮くんの態度は歳相応のそれで、私は密かに安堵した。妙に大人びていたものだから、こうして幼い一面を見ると可愛い弟ができたような気がして微笑ましくなる。
よかった、口は悪いけれど、根は素直な子みたいだ。
猫ちゃんの言った相性がいいという言葉の意味を少しだけ理解した。
この子となら、上手くやっていける気がする。