カード様にひれ伏す
変化があったのは、空腹と喉の渇きがあまりにもひどくて、自殺を考えたときだった。
この高い位置にある洞穴から地面に飛び降りれば、死ねるかもしれない。下にはごつごつとした赤い岩が突出しているし、あれに景気よく頭をごちんとすれば即死できないだろうか。
洞穴から落ちるぎりぎりのラインで立ち尽くして、千明はぼんやりと目の前の景色を眺めて考えていた。
赤い地平線、抜けるような青空、強すぎる太陽――影から抜け出た千明の肌を、じりじりと容赦なく照り付けている陽射しが、千明から思考力も生きる気力も奪っていく。
セーラー服の胸元に突っ込んでいた召喚カードも、じりじりと焼けているような気配がする。
そうしてぼんやりと、ほぼ茫然自失の状態で目の前の異界の光景を眺めていると、足元が揺れた。
がくん、と膝が崩れた次には後ろに尻餅をつき、ついた尻と腕から、岩が揺れているのがわかる。
ごごごご、とここ何日かで聞きなれた地響きがしたと思ったら、千明の頭上に影が差す。
圧倒的にエネルギーが足りてない今、ぼんやりと霞がかっていた思考でもってしても、それは誤魔化しようもなかった。
千明は最悪なシナリオを想像し、そしてそれは現実になろうとしている。
目の前に、あの巨大ミミズが立ちふさがっていた。
――チンアナゴだ。
千明は思った。
なにかに似てるな、とずっと考えていた。
姿形はミミズだが、あの長い胴体が地面から飛び出す様が、なにかに似ているとぼんやりと思っていたのだ。
そしてこの至近距離で見て初めて、それがなにか思い出した。
水族館で見た、あの白黒の斑点模様をした可愛らしいアナゴ。あれは可愛かった。正直うちで飼ってみたいと思った。父に言ったら、海水はくさいからだめだと言われ、泣く泣く諦めたのを覚えている。
そして千明はいま、そのチンアナゴに似た巨大なミミズに喰われようとしていた。
近くで見ると、おぞましさに拍車がかかる。
遠い距離で誤魔化されていたうすぼんやりとした輪郭はいまやはっきりと千明の目に映し出されていた。
陽光に照らされきらきらと滑っていた赤黒い体皮はとんでもなく生臭いということ、肉厚の舌の表面に小さな棘のような突起物が無数についていること、ないと思っていた眼は確かになかったが、つるりとないわけではなく、そこだけ赤い肉が盛り上がり、退化した名残があることを千明に教える。
なにからなにまでグロテスクだった。
「……せめてもうちょっと可愛げがあれば」
絶望を目の前にこぼれた千明の呟きは、チンアナゴならぬ巨大ミミズの咆哮を前に跡形もなく消え去った。
ドッ――、と脇腹に衝撃が走る。次の瞬間には浮遊感を感じ、背中から岩に突き飛ばされたことを知る。感覚が鈍っているからか、痛みはあまり感じなかった。よく見れば、頭から血が滴っている。それも相当な量だった。
まあ、頭は小さな傷でも血がたくさん出るというしな。
ぼんやりとした千明の耳に、ぞろぞろと砂を這う音が届く。見れば、倒れこんだ千明を喰らわんと洞穴にその巨大な頭をねじ込んでいるミミズが見えた。
大きく開けた口からは、体皮とは比べ物にならないほどの腐臭がしている。
その臭いの一部になってしまうのかと考えて、初めて千明は恐怖を覚えた。
あの大きな口に飲み込まれ、あの無数の棘が生えた舌で嬲られ、皮膚をこそぎ落とされて、丸呑みされる――。
そんなイメージが一気に駆け上がって、千明はぶるぶると震えた。
そんな千明を嗤うように、けたけたと奇妙な咆哮をミミズが上げた。
馬鹿にされている――千明は恐怖の裏側で、己が苛立つのを感じた。
ぼんやりとしていた頭が、流血する血に反してはっきりとしていくようだった。
一度苛立つと、何もかもに腹が立ってきて、胸元から滑り落ちて血濡れになっていた召喚カードを無意識に握りつぶした。
あの人の話を全く聞く気のなかった傲慢な少年も、レア中のレアだというのに役に立たないカード様にも、目の前のクソミミズにも、腹が立って腹が立って仕方なかった。
なんで私がこんな目に遭っている、どうして誰も助けがこない、どうしてこんな場所にいるの。
「……こい、」
涸れた喉は言葉もろくに出さなかった。
それでも千明は、体の奥から吹き上がるような怒りに任せて、大声で叫んだ。
「――出てこい!」