発つ者記憶に残らず【完】
「なーなこ!」
「千夏」
「夏休みどうだった?」
昼休みになると近くの椅子を持って千夏が私の席にやってきた。
彼女は千藤千夏(せんどうちなつ)。名前に千が2つもあってよく名前書くときゲシュタルト崩壊するんだ、とわけのわからないことを言う。
「うーん…勉強?」
「だよね、ですよね」
「千夏は?」
お互いにお弁当を広げながら近況報告をする。
私のお弁当は昨日の夕飯の残り物。千夏のは冷凍食品が大部分を占めていた。
「んー、んふふっ」
「何その笑い声」
「ごめん、ちょっと思い出し笑い」
「まあいいよ。だいたい予想ついた」
私は肩をすくめるとブロッコリーを箸で摘まんで食べた。
彼女には2つ年上の彼氏がいる。きっと、その彼氏といろんなところに行ったのだろう。
私の言葉を聞いても千夏は顔をほころばせたままで、自分のポケットを探って何かを取り出して机の上に置いた。
「はいこれお土産」
「…えーっと」
「沖縄限定のやつなんだよ」
世界的な人気が出てきた白い猫のキャラクターのご当地限定のストラップ。それがポンと机の上に現れて面食らった。
受験期に沖縄…マジか。
「水族館よかったよ。ほらこれ、ジンベエザメを食べるあたし」
そして満面の笑みで何やらいじっているなと思っていたスマホの画面を見せられた。遠近法でジンベエザメが千夏の口の中に突っ込んでいく画像がそこにあった。
…写真に若干彼氏の指映り込んでますが。
そのことには触れず、よかったね、と止まらない千夏のトークに相槌を打っていると昼休みが終わった。
さらにようやく5時間目が終わり放課後となるとバラバラとみんな帰って行き、教室の中はがらんとした。私を含めて数人しか残っていない。私も家に帰るなり予備校の自習室に行くなりして勉強してもいいんだけど、今日はなんだか教室でもいいや、と思った。
数学のテキストとノートを取り出し、音楽プレーヤーを起動させイヤホンを耳に付けた。
勉強するときはいつも音楽を聞く。集中するためでもあるし、自分だけの空間にいるような気分になるからでもある。
1時間ほど問題を解いて顔を上げるといつの間にか私しかいなかった。他の人はもう帰ったみたいで、切り上げるの早くない?と思ったけど、帰る電車の時間に合わせて出ようと思っていたのかもしれない、と思いついた。
今は5時。まだ外は明るい。
窓の外を眺めていると突然ガラッと教室のドアが開いてビクッとなった。
「…なんだ、おまえか」
「つ、津田沼…」
「電気つけっぱだから消そうと思ったんだけど」
「あ、そう…」
不覚にもこんなやつに驚かされたのが悔しくてまたツンとした態度を取ってしまう。顔を覗かせた津田沼の手には大量の紙の束があった。
「忘れ物?」
「ちげーよ。進路室行って過去問印刷してたから置きっぱにしてた荷物取りに来た」
そう言い残して彼は廊下にあるロッカーを開け、またガチャンと閉めた。廊下側の窓はすりガラスになっていて影だけがその間動き、歩いてドアの壁で消え、開け放たれた入り口にまた現れた。その間、私は彼の動きをじっと目で追っていた。
「帰んねーの?」
スクバを右肩にかけた津田沼は腕を組んで壁に左肩を預けて真顔で私を見つめる。教室の時計をもう1度見て、私は机に広げていたものをしまってエアコンを消し電気を消して津田沼がいるドアとは別のドアから廊下に出た。
「…帰る」
「俺チャリ取ってくるから先行ってるわ」
「うん」
律儀に私が出てくるのを待ってから下駄箱に向かった彼の後ろ姿を見て、この夏でさらに背が伸びたんじゃないか、と思った。