発つ者記憶に残らず【完】
「それでは私はこれで失礼いたします」
「…え?」
少し歩いて後ろから聞こえたのはそんなマーガレットの言葉。慌てて振り返るとお辞儀をしてちょうど頭を上げた彼女がいた。訳もわからなくてそんなまさかね、という苦笑いを浮かべながら瞬きをする。でもマーガレットは真顔のまま踵を返し部屋の外に出てしまった。
…見捨てられたの?
それはいくらなんでも酷すぎる。主を1人にするなんて侍女のやることじゃない!と声に出せない叫びを心の中でしたけど、もちろんマーガレットは帰って来るわけもなく…
さりげなくそのままきょろきょろと壁際を見渡すと、確かに他の人も付き人をここには連れていないようだった。完全なるプライベートということなのか、若いボーイとメイドはいるけどマーガレットのような世話係みたいな人は見当たらない。
まさに袋の中のネズミ…
ちょっと待って耐えられないこんなの、どんなプレイよ。周りの視線も気になるし、どう動けばいいのかわからないし、歩き出そうとしても手と足の同じ側を同時に動かしてしまいそうで、とにかく心臓がドキドキとうるさく鳴っていて落ち着かない。
ひーんではなくうわーんと思いつつ、手を前で慎ましく組んで歩くことにした。うん、これならはしたなくないはず…右手と右足が揃うこともない。でも歩き出したところで一人ぼっちに変わりなく心細くてやっぱりきょろきょろとしてしまう。
無意識に探していたのはノイシュかトーレン。でもまだ来ていないのか見当たらない。どうしようどうしようどうすればいいの、とひたすらに焦っていると後ろから右肩に軽く掴まれるように手のひらが乗って思わず叫びながら走って逃げそうになった。
でも奥歯をグッと噛んでその衝動をやり過ごし、さりげなく振り向くとなぜか満面の笑みを浮かべたヨハンがいた。少しアルコールの匂いがするから酔っているのかもしれない。
この人とアルコールって…混ぜるなキケンだと思うんだけど大丈夫かな…
「このワイン美味しいから飲んでみてよ」
「ワ、ワイン…ですか?」
私の右肩に乗った左手とは逆の右手に持っていたグラスをいきなりずいっと顔に近づけられて思わずのけぞる。そこでは赤ワインが軽やかに波打っていた。
この世界の16歳は…お酒は飲んでも大丈夫なんだろうか。
「ほらほらほらほら!」
「うう…」
大きな声を出しながらぐいぐいとグラスを近づけられて、それを避けようと肩を引いたら強い力で右肩を押さえつけられているからかあまり逃げられなかった。鼻に届くワインの渋い臭いに顔をしかめるのをなんとかこらえながらそのグラスに右手を添える。
すると、ヨハンはグラスを持ったまま私の口に傾けてきた。こんな、アルハラ反対…と思いつつ観念して僅かに唇を開くと、わざとなのか口の端からワインが溢れてせっかく着替えた淡いピンク色のドレスに垂れてしまった。口の中が苦い…
私が紅いシミを作る口元のワインを左手で拭うとヨハンは上機嫌にさらににっこりと笑った。
「ああ綺麗だなあ…まるで血の色みたいだ」
このサイコパスが、と心の中で毒づきながら黙って受け流す。でも、グラスに残っていた赤ワインをそのままわざと胸元にビシャっとかけられて唖然とした。その表情から笑みは消えていて、氷のような感情のない虚ろな瞳が私を見下ろす。
もう意味わかんない、と思いながら顔に飛び跳ねてきたワインを両手で拭っていると、そのままヨハンが私を通り過ぎてどこかに歩いて行ってしまい私の哀れな姿が部屋の中に完全に露見された。
クスクス、という笑いまで聞こえてきてさすがの私でも俯く。そんなに皆さんディアンヌが嫌いですか、とどこか他人事のようにも感じつつ、足がすくんでいるのかその気持ちとは裏腹にその場から動けず立ち尽くした。