発つ者記憶に残らず【完】


以前もあったかわからないけど、ディアンヌはこんな仕打ちをどのようにして切り抜けたんだろう、と頭の中で考えつつ、やはり彼女になりきるのは無理そうだと漠然と思った。

ディアンヌだったら、ディアンヌだったら…とずっと無意識にそう考えてきたけど、よく知りもしない彼女を真似しようとしてもできるわけもなく、今だってもう頭の中はぐちゃぐちゃになってきていた。

だんだんと俯いていき、周りの騒音も遠くなり聞こえなくなる。このまま床に穴が開いて地の奥底まで沈んで行きたい、と思ったら気が緩んだのか膝を折ってしまい足を横に投げ出して座り込んでしまった。目の前には床のカーペットしか映っていない。

こんな仕打ち、今まで経験したことがない。中学のイジメでさえ乗り切ることができたのに、今回はその比にならないくらいダメージが強くさすがの私でも胸が張り裂けそうだった。

嘲笑する人々、ディアンヌに対する冷たい態度、それらに耐え続けていたであろう彼女の苦悩…

私の憤りは行き先を見つけられず中で暴れまわる。


「…ディアナ」


突然ふわりと宙に浮いた体と、軽々と抱き上げるしなやかでたくましい腕。耳に届く心地よい声は柔らかく凛とし、体の右側に当たる胸は温かい。

ディアナ…ディアンヌを略した呼び方だ。その名前で呼んでくれたことに心を打たれ、私はクシャッと彼の服を掴み目を伏せて嗚咽が漏れないように奥歯を噛み締め、その胸に強く顔をうずめた。

私の膝と肩に腕を回し抱き上げたその人…ノイシュは私と会ってから間もないというのに本気で怒っているようだった。彼の突然の登場と予想外の行動、そしてその短い1言で辺りはシーンと静まり返る。


「……彼女は、生きているのか」

「はい」


顔は見えないけど、その放たれた声は無機質な響きを持っていた。一緒にいるのかトーレンが短く返事をするのも聞こえた。

でもノイシュはそれ以上何を言うでもなく、金色の鮮やかな髪をなびかせてさっさと部屋を後にしてしまった。バタン、とドアが閉まる大きな音がして1人分の足音が廊下に響き渡る。

しばらく進むとトーレンが追いついたのかだんだんと別の足音が近づいてきた。するとピタリと全ての足音がやみ、私はストンと廊下に下ろされた。

ハッとして見上げるとやはり無機質な表情のノイシュがいて、その背後には心配そうに主を見つめるトーレンが見えた。ノイシュの目を見つめると、瞬きさえも虚空に感じられて思わず右手を伸ばしてキュッと彼の左手を掴むと案の定、氷のように冷え切っていた。


「私は、死んでません…」


"ノイシュを冷血漢のように思うかもしれないけど、所有物に対する執着心は強い男よ。自分のものだと1度認識すればその後はもう親バカというか…庇護欲の塊になるの"

ヨハンのフォルテに対するイジメを黙認するノイシュの説明の後に続いた手帳のその言葉。その意味が今、わかった。

赤い水滴が点々と飛び散る床の上に倒れ込む体。その服は首から胸にかけて朱に染まり口からも紅い線が伸びているのに気づいたら、誰だって一瞬でも誤解するに違いない。

私が死んでいるのかもしれない、と僅かでもノイシュは思ってしまったんだろう。


「わからない…俺でも。なんで、こんな…」


唇に右手の長い指先を添えてボソボソとつぶやく彼の瞳は動揺で揺れていた。

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