発つ者記憶に残らず【完】
「よく知りませんが、あなたはディアンヌのことを大事にしていたようですね」
握ったノイシュの左手からそっと右手を離しつつそう言うと彼は理解できない、とでもいうように首を緩く横に振った。
確かに手帳にはノイシュについてそんなに多くは語られていなかったけど、家族の他の人に比べれば多かった気がする。それはディアンヌ自身のせいか、ノイシュが彼女に見せる態度のせいか…
まあいいか、助けてくれたことには変わりない、と考えるのをやめ素直に頭を下げた。
「先程は助けてくださりありがとうございました。あなたのあの行動がこのあとどのように作用するかの責任は私には取れませんが…今後は私もヨハンには気をつけます」
ノイシュに対して大きな態度を見せていなかったヨハンがノイシュのものに手を出し怒りを買ったとなれば、もうヨハンは我慢しないかもしれない。
ドラゴンが与える権力争いへの影響は私にはまだ理解できないけど、フォルテもいなくなることだし私にこれからはちょっかいを出そうと思っていた矢先にこんな状況になってしまい、ヨハンはさぞむしゃくしゃとしていることだろう。
「あの、それはヨハン様のせいでそうなっているのですか?」
「…ああ、うん、そう」
そっか、目撃したわけじゃないんだった、とトーレンの言葉で思い出し頷いてみせた。それを見て目を丸くさせるトーレン。何に驚いたのかさっぱりだけど、私がもう立ち直っていることも理由に入っている気がする。
さっきまで迷子になって寂しくなってきた猫みたいにうずくまっていたのにね。
「では、私はドレスも汚してしまったことですし部屋に帰りますので、嫌でなければお2人は会場に戻ってください。せっかく嫁ぐのにフォルテが可哀想です」
「可哀想って…自分のことを可哀想だとは思わないのですか」
ずっと黙って私を見つめるノイシュの隣に立つとトーレンは呆れたように聞いてきた。私はそれに対して首を横に振って肩をすくめた。
「そう言われても…正直実感が湧かない。完全なる他人事だとは思わないけど、ディアンヌに対して同情はしてると思う。でも、それだけ、だから…」
「あなたって人は…」
憐れむような目で見られてふいっとトーレンから視線を外し背中を向けた。私は2人には見えない角度でふっと自嘲気味に笑みを浮かべ、トーレンが言いたいことは痛い程わかる、と今度は唇を噛み締めた。
自分が大事かどうかなんて、もうわからなくなってきてるんだもん…
今回は外傷は無かったけど、もし本当に刺されたり殴られたりすれば私はその痛みに顔を歪めるだろう。ヨハンは精神的に私を追い詰めようとしていたみたいだし、実際に私は追い詰められたけど、泣きながらやめてと懇願したりあからさまに拒否することもしなかった。自ら渋々と唇を開き、淡々と口から溢れたワインを拭く私の態度がお気に召さなかったのか、ヨハンは興醒めしたかのようにワインをぶちまけてきた。
子供か、と思ったけど、それほど自分のやりたいことに忠実になれることに対してだけは羨ましいという気持ちがないわけでもない。真似したいとは全く思わないけど。