発つ者記憶に残らず【完】
*ノイシュside*
遠ざかる小さな背中を俺は呆然と見送っていた。
「…ノイシュ様」
部下の呼びかけにハッとし我にかえる。右側を振り向けば眉をひそめたトーレンが俺を見上げていた。さほど背丈は変わらないが俺の方が少し上で、見上げてくる顔にまだまだ見習い騎士だった頃の面影が重なって見えた。
…いつまで感傷に浸っているつもりだ、と俺はくるりと踵を返した。後ろからトーレンが雛のようについて来るのが聞こえる。さっきまでは隣にいたのにな、と思いつつ誰もいない廊下を突き進む。
またあの会場に戻るとなると気が進まないが、顔を立てなければならないことはわかっていた。フォルテの夫は騎士団長の長子であり、親子共々俺が指揮を取っているドラゴンの新育成場の設営に賛同してくれている。その関係でどうでもいいとまではいかないが、気乗りしないパーティーに参加しなければならなくなった。
その育成場について案を煮詰めていたら時間を過ぎてしまい足早に向かえばあの始末。浅はかな行為だった、とマリアに間接的にたしなめられたものの、俺は意外と後悔していない自分の存在がいることに悪い気はしていなかった。むしろ、やっと血の巡りが良くなったような気がする。今までの暮らしはどこか夢の中にいるような感覚がしていたのだ。
"……ノイシュ"
彼女に"よく知りませんが、あなたはディアンヌのことを大事にしていたようですね"と言われたときは混乱した頭で言っていた意味がよくわからず首を振ったが、よく考えればあれはそんなに昔のことではない。むしろごく最近の…昨夜の、夕食の時間にディアンヌが現れなかったときから何かがすでに起こっていたのかもしれない、と思えた。
昨夜、夕食を食べ終え自室に戻ると、裸足のまま薄着1枚で俺のベッドに腰掛ける彼女がいた。
"……ノイシュ"
彼女は俺の名前を呼び、濡れたように輝く瞳を闇夜に浮かべながらドアの前で立ち尽くす俺を見つめた。今まで接点を持とうとしてこなかった末妹。その行動を理解できず引き返そうと背を向けドアノブに手をかけると背中に衝撃を感じた。
腰に回された細くて白い腕が生々しく絡みつき、指の1本1本が俺を離すまいと固く服を掴んでいた。それによってできたシワの影をただ意味もなく眺めていると、後ろの彼女はぽつりと呟いた。
"…私は、あなたが好きなの"
人としてなのか、兄としてなのか、それとも…と固まっていた思考を瞬時に巡らせた。今までできることもできないと言い、やれることをやらないでいた彼女のその行動をもちろん俺が受け入れるはずもなく、貝のように何も受け付けないという態度で無言を貫いた。今思えば、あのとき俺は一言も発していなかったことに気づく。
しかし、どこか思考すらも麻痺していったのは確かだ。
"私、たぶん結婚できないから…だから…"
"初めてなの"と、言った声は震えていてよく聞き取れなかった。俺がその唇を塞いだからかもしれない。振り向き見下ろした視線の先にいた彼女。そこに映った女の顔をする美しい赤髪の少女はもうディアンヌではなくなっていた。