発つ者記憶に残らず【完】
掴んでいる右手をまた凝視されて私もいい加減解放してほしかった。ずっと中途半端に上げていると腕が痺れそう。
「ノイシュ?」
「……」
声をかけたけど彼はなぜかヒアが眠るカゴを睨みつけ始めたからつられてそっちを見ると、さっきまで固く閉じていた両目を爛々と輝かせて鎌首を持ち上げてこっちを凝視するヒアと目が会った。
……ヤバい、完全に狙われた。
恐らく血の匂いで興奮しているんだろう、口を開けて舌を出しゆっくりとカゴから身を半分以上乗り出したヒアはまさしく猛獣で、今にもこっちに飛びかかって来そうだった。距離にして約3メートル程。こんなのヒアにとっては障害でも何でもない。
「…ヒア、ダメだ」
ヒアの視界に私を入れないよう、ノイシュが私たちの間に割って入った。ヒアの姿が見えなくなりノイシュの広い背中だけが見える。
私が邪魔にならないよう少しだけ後退ろうとすると、今度は後ろにいたトーレンの手が背中に添えられて身動きが取れなくなった。
ちらりと見上げると、同じくヒアを凝視して離さないトーレンの真剣な顔があって逃げることは諦めた。
"ドラゴンは1度人間の味を覚えると理性を失う恐れがある"
ちょうど昨日ノイシュに言われたことを思い出しハッとした。ヒアが今後も健全に育つには、誰も血を流さず、鱗についた血すら舐めさせず、今はヒアが静まるのを待つしかない。
徐々ににじり出てくるヒアだけど、なかなかそこから飛び出そうとはせずに留まっていた。前傾姿勢は崩さないものの、小さな前足はカゴをグッと掴んでいる。
まさかとは思うけど、ヒアも理性を保とうと必死になっているのだろうか。
"ドラゴンには階級があり、ヘイト村を襲わせたドラゴンは低級だ。図体が大きいだけで頭は悪い。レイドが乗っていたという黒いやつは中級、ヒアは上級だ"
ノイシュいわく、ドラゴンはその階級によって頭の良さだったり身体能力だったりが変わるらしく、低級なら体は強いけどバカで、中級なら普通に話が通じる。上級は賢いけど一番野生的で人に懐くことはあまりなく、神聖な生き物として崇められているそうだ。
このマドロス王国では王子は自分で育成場で卵を選び孵化させ育てる習わしがあり、階級は血統と関係ないからどの卵からどの階級が生まれるかはわからず運次第。その階級が高いドラゴンが生まれてしかもそれを手懐けられるかで王が決まるらしく、例えば次男のヨハンでも上級ドラゴンが生まれて手懐けられたらノイシュを出し抜いて王様になれるらしい。
実際はヨハンのドラゴンは中級だったんだけど、あまりにもヒアの成長が遅いからもしかしたらヨハンが王位に就くかもしれなくて城の中にいるみんなはハラハラとしているそうだ。それは、どっちかと言えばノイシュを国王に望んでいるから。
まあ、私でもノイシュの方がいいと思ってる。だから関係のない私なんかのために王位継承の競争に水を差すようなことはしたくなかった。