発つ者記憶に残らず【完】
その日、各地で白くて神々しい大きなドラゴンが人間の街の上空を横切る姿が目撃された。人々はそれに神の姿を思い浮かべ、しばらく話題の種になり、何か良いことが起こりそうだ、と活気づいたという。
それと同時に浮かされたようにその白いドラゴンを狙う人間が各地で現れたものの、その姿をもう1度拝むことができた者はおらず、あれはドラゴンのヌシだ、と乱獲者の間ではひそひそと囁かれた。
「……はあ」
ヒアの姿がすっかり見えなくなり、夢から覚めたように窓を閉めて振り返ると執務室の床は散々な光景になっていて、誰のため息ともつかぬ声が漏れた。
梯子が倒れなかったのが幸いだったな、と思いつつ3人で後片付けをしていると、私は本の下敷きになっていたヒアの小さな鱗を発見した。トーレンの手の上にあったときから記憶に無かったけど、本の重みで割れることが無かった鱗の硬さに驚きつつ、何か揺るぎない強さを感じてノイシュとトーレンを呼んだ。
「……これ、洗いたい」
私がそう言うと2人は無言で拾い上げ慎重に洗い込み窓際に置いて乾かした。乾かしている間にも片付けは着々と進み、お昼を食べることも忘れて黙々と作業をしていると終わる頃にはすっかり夕方になってしまっていた。
途中で暑くなって腕まくりをしていた腕に紙でできた切り傷があることに気づいてさり気なく袖を戻そうとすると、目ざといノイシュに見つかってガッと手を掴まれてできなかった。
「……粗方片付いた。休憩にする」
私もちょうど疲れを感じていたところで、奥の部屋に向かうとトーレンがお茶菓子を用意してくれていた。見つけたクッキーに無意識に右手を伸ばそうとしたけどすぐ後ろについていたノイシュに掴まれたせいでできなかった。
恨めしく思ってジロッと見上げると子供でもわかることを言われて赤面した。
「ちゃんと手、洗ってからだ」
そしてそのまま近くの洗面所に連れて行かれ、ノイシュの手によって綺麗に両手を洗い込まれてまた赤面した。別にいやらしいことをされているわけではないけど、背中から覆い被さるようにして立たれ、石鹸でぬるぬると動き回る指とその手つきに緊張を覚えて俯く。
さらには頭の右耳よりも少し上のあたりにノイシュの顎が当たっていて、耳にもどちらかの髪が当っていてもう恥ずかしさで死ぬかと思った。
キュッと水道の蛇口を閉めたノイシュは近くに常備されていたタオルを私に渡すと、また寄って来て右手で私の後頭部に指を差し込んで軽く引き寄せ、右耳に囁く様にしてあることを言った。その間、彼の喉仏が目の前にあって私はぎゅっと目を閉じていた。
"顔、戻してから来い"
ノイシュが去ってからもしばらく硬直していたけど、恐る恐る目を開けて鏡に向き直った。そして言葉の意味がわかり、洗面所の台に手を軽くついて項垂れ、小さく息を吐いた。
「……ああっ…」
もういや。死にたい。ふとしたあの色気を誰かどうにかしてください…
鏡に映った自分の顔は、髪の毛に匹敵するぐらい真っ赤に高潮し、目も軽く潤んでいた。