発つ者記憶に残らず【完】
「……誰かいなかったか」
真っ先にやってきたノイシュが視線を巡らせているのを見て一瞬迷ったけど、嘘は身を滅ぼすと思って正直に答えた。
「…ヨハンがさっきまでいたけど2人の気配を察知して逃げてった」
「何かされたのか」
「何も。未遂、でいいのかな」
低い声で矢継ぎ早に聞かれて私も短く答えた。警戒するノイシュに続いて部屋に入ったトーレンの両手には重そうな顕微鏡があった。形はまあどこの世界もだいたい同じだ。
対物レンズと接眼レンズ、反射鏡、レボルバー、しぼり…中学生の教科書で見るような名前を意味もなく思い出していると、目の前にあるクッキーが乗ったお皿がトーレンによって次々と片付けられてしまった。
あ、まだ食べたかったかも…
「ヨハンのことは後にする。とりあえず鱗を確認したい」
研究者魂の熱はヨハンの行動では冷ますことができず、目を輝かせているノイシュを見て私もワクワクとした。ドラゴンの鱗を観察できるなんてなかなかできない体験だ。
スライドガラスにノイシュが爪の大きさぐらいの鱗を乗せて顕微鏡にセットしている間に、トーレンが紙と鉛筆を用意した。スケッチの基本だね。
夕日だけだと暗いから私がランプを執務室から持って来ると、気づいたノイシュが受け取り顕微鏡の前に置いてさらりと私の頭を撫でた。
触れられた頭を右手で押さえながら、さり気なくこういうことするんだから、と思いつつワゴンの上に片付けられたクッキーを1つ取って食べた。
なんか、今は無性に食べたい気分だ。
「あっ、何枚食べるつもりですか。夕食の前ですよ」
「ごめん。なんか止まらなくて…」
「俺にもくれ」
気づいたトーレンに指摘されて、また摘もうとした手を慌てて引っ込めた。するとノイシュが顕微鏡を覗いて操作したままいけしゃあしゃあと言ってきた。
トーレンと顔を見合わせて私が紙ナプキンを手のひらに乗せてクッキーを1枚だけ彼の元まで持って行くと、彼はそれをちらっと見ただけで手に付けなかった。
困ってトーレンに助けを求めるとぷいっとそっぽを向かれた。これはあれだ、食べさせろってことなんでしょきっと。わかってるよ……
仕方なくクッキーを素手で摘みその下に紙ナプキンを広げた手を添え、ドキドキしながらそのまま口元まで持って行くと、顕微鏡から顔を離したノイシュが私の手を掴んでそのままクッキーにかじりついた。
何この羞恥プレイ、とぷるぷると震える手と口元に気づいて、うう、と俯いた。我儘にも程がある。それをやってしまう私も私だけど、いつも拒否権がないように思ってやらなきゃ、という固定観念に支配される。
いつから私はこんなお客様は神様みたいな下僕体質になり下がってしまったのか……