発つ者記憶に残らず【完】
そしてクッキーを食べ終えたノイシュは一瞬私の指先も舐めようとしたけど、自制心が働いたのかそれ以上何かをすることはなく手を離してまた顕微鏡に集中した。
ホッとして彼から離れて中腰になっていた足を立たせると、足と腕を組んで座っているトーレンの、信じられない、という目がチクチクと突き刺さってきて痛かった。
だってなんか…だって…
言い訳を考えたものの頭の中がごちゃごちゃとしていてまとまらず、すごすごと静かに椅子に縮こまって座った。
確かに、ノイシュの飾らないアプローチに答える気もないのに何をやってるんだろう、と思うときがある。彼の気持ちに気づいていないわけじゃないけど、どこか疑心暗鬼だった。
ノイシュは私をどう見てるのか。それがよくわからない。
ただのシスコンだとも思えるし、違う意思があるようにも捉えられる。そんなギリギリの行動もあって結論を出せずにいる。
悶々と考えていると、サラサラとノイシュが紙に何かをスケッチし始めたからハッとしてそっちを見た。片手で紙を押さえつつ鉛筆で書き、覗いては書き、たまに覗きながら書く。
書き終わるのを待っていると、パタンとノイシュがテーブルに鉛筆を置いてこめかみに指を押し当て、背もたれに体重を預けて天井を仰いだ。トーレンと同時に腰を浮かせて我先にと顕微鏡の争奪戦を始める。
早く見たい見たい……!
そして勝ったのは近くに座っていた私で、顕微鏡を覗くと仰天してしまいそこにあったトーレンの顎に私の頭がクリーンヒットした。
「ごふっ……!」
「あ、ごめん」
と、棒読みで謝罪しまた顕微鏡を覗いた。トーレンに恨めしそうな目で見下ろされている気がするけどそんなの無視無視。
「何これ…」
レンズの向こう側に見えたのは、紫色の何かの文字だった。それは鱗の表面を生き物のように漂い、ときおりその形を変えている。意味わからなさすぎて思わず声が漏れた。
これじゃあスケッチも大変だったよね、と顔を離して顕微鏡の前からどくとトーレンがさっと身を乗り出して覗き始めた。
「これは…何でしょうね。古代文字に似ている気がしますが」
「古代文字?」
「言葉そのままの意味だ。昔使っていた忘れ去られた文字……だが、そんなものが鱗1枚1枚にあり自由にドラゴンの体表を変形しながら移動しているとなると意味が違ってくる」
「どういうこと?」
「ドラゴンは魔法のようなものを使える、と言ったのを覚えているか?」
「うん」
「古代文字はその当時、まじないや呪いにも使われていた」
「つまり、この文字がドラゴンが魔法を使える要因になってるかもしれないってこと?」
「ああ。だが厄介なことにその鱗にある文字は古代文字に似て異なるものだ。解読するには骨が折れる」
言い方からしてその古代文字はアルファベットみたいな感じなのかな、と思った。日本語みたいなのだと崩すとか、形を変えるとかはあまりできない。その一方で、英語の筆記体とか、ロシア語の筆記体とか、いくらでも崩せる言語は存在する。
……ロシア語の筆記体は、1度見てみると面白いよ。