発つ者記憶に残らず【完】
「ねえ、話すって何を?」
スーパーから出てしばらく歩いて背中から声をかけるとぴたりと津田沼は歩みを止めて振り返ってきた。なぜかその顔は険しく、何かあったのだろうかと心配になる。
「俺が大会で成績を残せなくて部活を引退したとき、おまえ俺に構ってくれてただろ」
「う、うん」
いきなり話し始めた私たちの横を車が邪魔そうにぶうんと通ったから近くにあった公園に立ち寄った。その公園には誰もいなくて、ようやく少し暗くなった空に反応して電灯がパッとついた。
津田沼はブランコの近くに自転車を止めブランコの周りにある柵に猫背で腰かけた。私も少し離れたところで柵に背中を預けた。2人しかいないこの空間はいやに静かで、そこまで声を出しているわけでもないのに彼の声がはっきりと聞こえる。
「あのときは正直助かった。今まで培ってきたものがガラガラと崩れて足元に転がってる気がして身動きが取れない状態だった」
ずっと練習してきたハードル走。中学から続けたその競技は彼の生き甲斐であり彼の一部だった。これまで積み上げてきたものが足元に転がっている状態で、それを飛び越えたり踏んづけたりしてでもその場所から動きたいとは思わなかった。
何もしたくない。彼はそう思っていた。
「受験勉強する気もなくてさ。6月の大会が終わって期末がこれから控えてるのにまさに虚無って感じで勝手に動く体に任せて毎日過ごしてた」
「うん」
「でもおまえが気にしてくるから任せているわけにもいかなくなった。自分で考えて動かないとって思えた」
惰性で動くだけの生活。だらだらと過ごす日常。電車の窓を流れる風景が勝手に流れていくように時間が勝手に流れていく。それを眺めるだけの日々。
「まあ、だからあれだ。自分のやりたいことが見つかればそれをやってみようと思ってアイスを食べた」
「…うん」
それとこれとがどう繋がるのかいまいち理解できなかったけど、要は物事に興味を示したことはいい傾向だ。彼の表情はここからは見えない。でももう沈んだ顔はしていないんだと思う。
「で、あのな…ありがとな、気い遣わせて」
「んーん。気にすることないよ。ずっと後ろからため息が聞こえてて正直こっちも参ってたから」
少し笑いながら首を横に振って否定しまた可愛げのないことを言ってしまった。重~いため息がずっと聞こえてたのは本当。それをどうにかしたいと思った結果、慰めるような形になってしまった。こっちだってそんなに1日に何回もため息なんて聞いてらんないよ。
私は本当は凄く合理的な性格だ。自分のためにやったことが周りにいい影響を与えて感謝されたり一目置かれたりするけど、自分のためにやっただけだから、と心の中で否定する。謙遜しているわけでも遠慮しているわけでもなく、本当に感謝されるような気持ちでやっていたわけじゃないから、と言いたくなる。でもそれを言うと雰囲気がぶち壊しになるから口が裂けても言わないと決めている。
「それで、あのな…俺、おまえにすっげえ感謝してるんだ。それと同時に違う感情も湧いてきて…なあ、俺と…」
彼が意を決して振り向くとそこには誰もいなかった。
「あれ…?」
確かに誰かとさっきまで一緒にいた気がする。でも誰もいない。それになんでここにいるんだ、と不思議に思い彼は首を傾げてあっさりと立ち上がる。そして止めていた自転車の前かごに荷物を放り込んで彼はそのまま薄暗い公園から走り去って行ってしまった。
公園の地面に残された足跡は1人分しかなかった。