発つ者記憶に残らず【完】


身を委ねてくる黒猫の適度な重さに癒やされていると、ドアが閉まる音がしてゆっくりと顔を上げた。そこにはヨハンがいて一瞬私と目があったけどすぐにノイシュの背中で見えなくなった。

その刹那に見えたヨハンの顔は切なそうに歪んでいた。

ノイシュはヨハンの胸ぐらを掴んでグイッと引き寄せ頭半分ぐらい背が違う弟を見下ろした。2人の瞳には暗い影が満ちており、重苦しい雰囲気が漂う。

私はそんな2人の様子に戸惑いつつも、黒猫を抱いたまま窺うように少しずつ近づいた。そしてトーレンの隣まで行くと、ノイシュとヨハンの隙間にある僅かな空間だけが墨のように真っ黒に見えた。

ノイシュは眉間にしわを寄せ、ヨハンは俯きガッチリと自分の胸ぐらを掴んでいる拳をぼんやりと見つめていた。


「……ヨハン」


静まり返った空間に響き渡る声は僅かに震えて聞こえた。


「…俺は、許せないんだ」


ゆっくりと紡がれた言葉にヨハンはビクッと肩を震わせ、顎を少しだけ上げてノイシュを見上げた。その続きを待つかのように微動だにしない兄の瞳をじっと見つめ返す。

私も息をすることさえ煩わしいと感じるほど緊張していた。


「叱ることのできなかった俺の弱さが許せない」


ぼそりと落ちてきた言葉にヨハンは目を見開いた。長い睫毛の奥にある兄とは違う黒い瞳は、兄の表情の変化を逃すまいと必死だった。


「このままでいいと思っていた。いずれは治まるだろうと思っていた。だが、このままではいけないことを悟ったんだ」


ゆっくりと落ちてくる兄の言葉に、弟も唇を噛み締めた。


「違うんだノイシュ。ノイシュのせいじゃないよ」


弟は力なくそう言って項垂れた。


「ノイシュ。僕には……はっきりとした2つの人格があるんだ」


ヨハンが辛うじてその言葉を絞り出すとノイシュは掴んでいた手の力を緩め、徐々に離した。今度はノイシュがヨハンの言葉を待つことになった。

私とトーレンも固唾を飲んで見守ることしかできない。

彼の予想外のカミングアウトを誰も疑わなかった。なぜならこれまでのヨハンからは考えられないほど静かにポロポロと涙を流していたから。その涙があまりにも純粋に澄んでみえてとても嘘だとは思えなかったのだ。


「ゼウがいなくなってから僕は彼を探した。約束を守るために笛は1度も吹いてない。でも、何度も吹こうとした……その度に止める僕と吹こうとする僕が現れて、いつも止める僕が勝っていた」


そう言いながら懐から取り出された薄汚れた小さな巾着袋。何か細かい物が入っているのかカチャカチャとガラスが擦れ合うような音がした。

ヨハンはそれの口を緩め、右手の上で逆さまにし中身をそこに落とした。

見ると、粉々に砕けた薄い水色の破片がキラキラと綺麗に光を反射していた。

これはなんだろう…?

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