発つ者記憶に残らず【完】
ヨハンはその鋭利な地面の上で転ばないようにして進み、光る点の元まで近寄った。でも、彼は愕然とし、途方に暮れた。
たどり着いた先にあったゼウの笛は粉々に砕け散っていたのだ。
"なんで"とヨハンは目を泳がせた。"なんで笛が割れているの"、とよく働かない脳を叩き起こし、ハッと顔を上げてぐるりと見回した。
この地面はドラゴンそのもの。笛は鱗を加工した物だから、本来の鱗よりも強度が落ちている。つまり、ゼウの笛はこのドラゴンの亡骸にぶつかりその圧倒的な硬さに負けて割れてしまったのだ。
"嫌だ"と真っ先に思った。
"もう2度とゼウに会えない"。
さらにはドラゴンのこの亡骸はゼウの死を連想させ、本当にもうこれで会うことが叶わないことを嫌でも悟ることになり、彼はそれを受け入れられず反発した。
ゼウとの思い出も、この笛と一緒に粉々に砕けていく。
だんだんと浅くなる呼吸に息苦しくなっていったが、そのとき、ふと絶望から湧いて出てきた感情…もう1人の存在をはっきりと認識した。
"なら、全部壊しちゃえ"。
"可哀想な僕よりも可哀想な人を作ればいい。そうすれば僕はまた立ち上がれる"。
上には上が、下には下がいるように。
どん底から這い上がるのではなく、どん底のどん底を作ればいい。自分よりも悲しみ苦しむ誰かがいれば、自分は可哀想じゃなくなる。
そんな幻聴を聞いた気がした彼は元々は非常食の飴が入っていた巾着袋の中身を逆さまにして中身を全て山の下に捨て去り、その中に丁寧に1欠片も残さず拾った笛の残骸を入れた。
ここでもし遭難したら餓死するかもしれなかったのにわざわざ飴を捨てた彼は山を登り、山頂で2人に追いつきいつも通りにスケッチをしゼウについて聞き込みをした。
その日から彼の絵は少しだけ変わった。
今までは躍動感溢れる作風の絵もあったのに、いつしか彫刻のような、剥製のような。
今にも動き出しそうな絵が無くなり、まるで時が止まったかのような美しく無機質な絵ばかりになっていった。
つまり、ドラゴンの表情が細かく再現されなくなったのだ。楽しそうな、生きているという生命に満ち溢れた姿を描けなくなった彼は自分を嘲笑った。
"僕はもう……ダメだ"。
なぜか彼は人の顔を歪ませ壊したいと思う衝動に駆られるようになっていた。その衝動に駆られると、彼は宙に浮いたような感覚になり、自分がしている行動を傍観しているような気分になるそうだ。あそこで自分の体を動かしているのは一体誰なのだろう…
"ごめんなさい……"。
彼はそのとき、ずっと心の中で謝り続ける。届かない相手に向かって何度も何度も何度も…
その悲しみに暮れ、だんだんと自分に似た誰かが自分の体を操るところを傍観するばかりになっていたとき、彼の前に忽然とディアンヌが現れた。
"……この水と共に消えなさい"。
目の前にいる赤毛の少女は彼に水の入ったガラスのコップを手渡した。その瞬間、その水がボコボコと激しく沸騰し始めた。その熱さと衝撃にヨハンは驚き両手で持っていたそのコップを手放してしまった。
バリン、と床に落ちて砕け散った、コップだったはずのガラスの欠片。
それをただ呆然と眺めていると、ふとちゃんと自分の意志で体が動いていることに気がついた。そして無意識に片付けようとガラスの破片を摘むと、ちょうど鋭利なところを触ってしまったのか血が滲み出てきた。
"残念。まだ途中だったのに。あとはあなた次第よ"
彼女は肩をすくめると、くるりと背を向けて去っていった。ヨハンは追うことも忘れてその場でただただ呆けていた。
そんな出来事は、ちょうど今日から数えて5日前。
マリアがこの世界にやってきた日の夕方、まだディアンヌがディアンヌであったときに起こったことだった。