発つ者記憶に残らず【完】
そんな話を聞いて、"君は水を瞬時に沸騰させた。まさか覚えていないわけじゃないだろう"というヨハンに言われた言葉の意味がわかった。
あの言葉がさっきの話と繋がるんだ。
「それまでまともに話したこともなかったディアンヌがいきなり話しかけてきて、あんなことになって…本当に、夢でも見てたんじゃないかって思った」
彼女の行為のおかげで、コップの中にあった水がヨハンの体を奪っていたよくわからない別の精神を追い出したのか、吸い取ったのか、沸騰し少なくなった分の水が気化していたのは事実だった。
でもディアンヌの言葉通り"途中"だったのだろう。ある程度自分をコントロールできているものの、フォルテにそれらしいことを仄めかしたり、私にワインをかけたりした。
それ以前のヨハンがどのような悪戯をしていたかはわからないけど、ノイシュが思い詰める程だから大なり小なり悪質だったことには変わりないのだろう。
全部を吐露したヨハンは力なく少しだけ微笑んだ。
「ディアンヌ、ワインをかけたり髪を引っ張ったりしてしまってごめんなさい。もう、僕の中に"影"はいないよ。ヒアを見てから今日になるまでの間に"消えた"みたいなんだ」
ヒアの光輝く姿を見たヨハン。
それと同時に、どちらが王になるのかを無意識に考えたのかもしれない。あまり乗り気ではないノイシュに代わって誰が王になるのか。王になるのは誰なのか。
そしてもう"誰"とは言えない立場にいると悟って、彼は覚悟を決めてここにやって来た。
「僕の笛、ノイシュに預ける。だから行って来なよ」
"新しい育成場、楽しみにしてるから"。
そう言って私たちに晴れ晴れとした笑顔を向けたヨハンは、今までにないくらい年相応の好青年に見えた。ノイシュも笑顔を向け"ああ。任せておけ"とヨハンの肩を軽く叩いた。
この人、こんな顔で笑うんだ、とヨハンに対して思いつつ、ほんわかとした雰囲気なのに、ディアンヌのことを思い出して上がっていた口角をスッと下げた。
私の他とは違うオーラを見抜いたのか、腕の中にいる黒猫にピシッと鼻先に軽く猫ビンタされて思わず額を後ろに引いて顔をしかめた。それを見たトーレンは"何やってるんですか"と笑いながら黒猫をひょいと私から持ち上げて床に下ろした。
下ろされた黒猫はしばらくきょろきょろうろうろして落ち着きがなかったけど、私たちがソファーに座り始めるとその1つに陣取りとぐろを巻いた。
トーレンがやれやれ、とまた持ち上げようとすると、黒猫は今度はヨハンの膝の上に乗り身を落ち着かせて目を閉じた。それを見て笑みを浮かべる兄弟の顔はどことなく似ていた。もうそこに彼らを取り巻くわだかまりは無かった。
その光景を眺めつつ、ヨハンの話を聞いてからずっと私は考え込んでいて眉間にしわが寄っていたのか、トーレンに"猫に叩かれてなに不機嫌になってるんですか"と茶化された。ほっとけ、と手をひらひらと振ってみせる。
その最中にもずっと考えていたこと。
それは、もしかしたら本当はディアンヌは消えてなくて、マリア、つまり私も実はヨハンのいうところの"影"みたいなものなんじゃないか、ということだった。