ハイド・アンド・シーク
「そろそろ仕事に戻ろうか。コーヒーご馳走様。美味しかったです。それじゃあ、またね」
シルバーの腕時計で時間を確認した彼は、これまでの会話が嘘のようにあっさりと私に別れを告げた。
一瞬で現実に引き戻される。
忙しい仕事の合間にコーヒーを飲みに来たのだろうから、急いで自分の部署に戻るのだろう。
給湯室を颯爽と出ていこうとするその後ろ姿に、出来るだけ元気よく聞こえるように
「あのっ、ありがとうございました!」
と声をかけた。
……もう、彼の姿はない。
─────はぁ、名前……聞けなかった。
私は台に置いたままの空っぽの缶コーヒーを投げやりに見つめて、深いため息をついた。
まぁ、名前なんて聞いたところで部署も違うしなんの接点も持てないから意味がないことなのだが。
もっと話していたいなんて、私の口からは絶対に言えないセリフだ。初対面なのに図々しすぎる。
気を取り直して自分のオフィスに戻って仕事をしよう、と缶を手に取り給湯室を出ようとしたら、出会い頭にさっきの彼とぶつかった。
まさかこちらへ戻ってくるとは思っていなかったので、ぶつかった弾みで身体が後ろへ跳ね返る。何がなんだか分からなくてビックリしているうちに、バランスを崩して倒れかけた。
その私の手を、彼の手がしっかりと握った。
彼の焦ったような顔が見えた。
「ごめん!大丈夫!?」
「だ、だ、大丈夫……です……」
手が。手が。
と、顔が真っ赤になりかけているところへ、彼の真っ直ぐな目が私をとらえた。
「聞くの忘れた!部署と名前、教えて」
「…………あ、……営業課企画部の、森村菜緒です…」
私がきちんと立ったので、彼の手が私からするりと離れた。
こんな時なのに、離れてしまったことが寂しく感じてしまった。なんて邪な私。
「営業課企画部?……そうか、じゃあ来週から一緒に働けるね」
彼がそう言って、ふっと微笑む。
たった今、彼が言った言葉の意味がよく分からなくて首をかしげた。
「来週から営業課企画部に異動になるんだ。有沢樹です。よろしくね、森村さん」