ハイド・アンド・シーク
彼は目を細めて、手すりに身体を預けたまま「森村さんは覚えてないと思うけど」と笑った。
「俺が異動してくる前に、君と一度話をしてるんだよ。その時もこうして仕事の話したなぁって」
「お、お、覚えてないわけないじゃないですか!私もちゃんと覚えてます!給湯室で、一緒にコーヒー飲みましたよね」
彼が覚えていてくれたことが嬉しかった。
あの小さな出来事は、私にとっては一大事。彼を好きになるきっかけになったから。
私が覚えていたのが意外だったのか、主任は驚いたような顔をしていた。
「え?覚えてるの?何も言ってこないから忘れられてるのかと思ってたよ」
「私の方が忘れられてると思ってました……」
「真面目な子だなって感心したよ。今も変わってないけどね」
「主任こそ私のことを買いかぶってます」
仕事中にこっそり真剣な表情で仕事をしているあなたを見てときめいています、なんて絶対に言わないが。
ガタッと電車が揺れて、私はバランスを保とうと手すりを持つ手に力を入れる。
すると、主任がさりげなく手を伸ばして私の肩を支えてくれた。
「大丈夫?」
「……はい」
短い会話のあと、すぐに手が離れていく。
その手を目で追いながら、ちょっと触れてみたいなんて思う自分の大胆さが悲しい。
お酒が入っていなければ、こんなことは思わないだろうな。
有沢主任にもし恋人がいたとしたら、デートの時には手を繋いだりするのかな。
私の肩には、彼の手の温もりは残らなかった。