ハイド・アンド・シーク
初めて彼女に出会ったのは約一年前。
はじめにかけられた言葉は、「小銭がないなら貸しましょうか?」だった。
いつも飲んでいるブラックのコーヒーが売り切れていて、けっこう地味にショックを受けたあと、声をかけられた。振り返ったら、長い髪をひとつにふんわりまとめたたぶん俺より年下だろう、若い女性がこちらを見ていた。
小柄ってわけじゃないけど細身で、顔はちょっと小動物っぽい。
なんていうか、派手じゃないけど地味でもない、普通の子。
ぱちっとした目元に形のいい唇は、綺麗よりも可愛らしい。
あの日は、異動する前に元いた部署でちょっとしたトラブルがあって、早めに上がれるはずが残業になって、やや疲れていた。
商品開発部の事業開発室に勤務していた俺は、それより二ヶ月ほど前に突然、営業課企画部に異動してほしいと言われた。それも主任として。
「営業なんてやったことないです」
「所属は営業課だけど、企画部だから主体は事務作業だよ。営業部のサポートや、営業プランを営業部と連携しながら作ったり、契約書類の作成の確認とか新規プロジェクトの開拓補助とか、そんな感じかな」
「簡単におっしゃってますけど、俺、事業開発室から出たことないです。事務仕事も得意とは言えません。使いものになりませんよ。せめて主任というのは外してください」
鳥谷部コーポレーションに就職して八年、ずっと事業開発室に勤めていたから、さすがにいきなり畑の違う営業課に行くのは抵抗があった。
でも、異動の話を持ちかけてきた人事部の大塚さんという五十代とおぼしき女性は、にこやかに押し通す。
「企画部の豊谷部長が、ぜひ主任としてって言うの。あそこの部長さんと面識あるわね?あなたの人柄をいたく気に入ったそうよ。それに室長の話を聞いたら、あなたオールラウンダーらしいじゃない。頭の回転も早いし、手先も器用、パソコン関係も得意。外部との打ち合わせの時も率先してコミュ二ケーションとってるって。他社からの評価も高いって自慢してたわよ。開発室にこもってるのはもったいないのよ」
「それはいくらなんでも言いすぎです。だいたい、なんで急にそんな異動なんて……」
「急じゃないでしょ?二ヶ月後だもの。こちらも検討を重ねて異動を決めたの。営業課のこと色々調べておけば問題ないわよ。ねぇ、有沢くん?やってみなくちゃ分からないじゃない」
小会議室に、大塚さんと二人きり。
……ヤバい。押し切られそう。
この人、いま俺にすごい圧をかけている。