光のもとでⅡ+
Side 司 23話
翌朝、いつもの時間に目は覚めたが、昨夜寝たのが三時ともなれば、もう少し睡眠をとるべきか……。
今日は翠を乗せて高速道路を運転するわけで、少しの不安要素も残してはおきたくない。
そう思った俺は、身体を起こすことなく、もうしばらく休むことにした。
しかし、習慣というのはそうそう変えることはできないらしい。なかなか寝入ることができず、すでに三十分近い時間が経過している。
仕方なく枕元に置いてある腕時計を身につけるも、身体を起こすには至らない。
今日が最終日と思えば余計に、翠の側を離れることが惜しくて。
不意に隣に眠る翠へ視線を向けると、翠はこちらを向いてぐっすりと眠っていた。
翠の手は俺の長袖Tシャツの裾を軽く摘んでいて、それがひどくかわいく思えた。
健やかな寝息は規則正しく、胸が上下に動くのと連動している。
表情はいたって穏やかで、入院していたときの寝顔とは雲泥の差。
それがこんなにも嬉しい。
受験が終わってから緊張が緩んだのか、眩暈を起こす日も少なくはなかったが、ここにいる間は比較的元気に過ごせていたと思う。
翠が健やかに笑顔で過ごせることが何よりも大切で、自分にその手助けができたなら、と何度となく思ってきた。
もともと医者にはなるつもりでいたけれど、翠と出逢ってからは、それまで以上に医学の知識を欲したし、今以上に翠の体調管理をできたら……という思いばかりが強くなる。
どうやら、栞さんの側にいるために医者になったという昇さんのことを、どうこう言える立場ではなくなってしまったようだ。
本当、困るくらいに俺のあれこれを変えて行く。
その愛しい存在が寝返りを打った瞬間に首の下へ右腕を通し、後ろから抱きしめるように身体を重ねる。と、翠は無意識で腕枕になった俺の右手に自分の手を添えた。
そのまま翠を抱きしめうつらうつらすること数時間。翠がもごもごと身動きを始める。
目を開けて確認すると、パッチリと開いた大きな目が視界に入った。
「起きた?」
小声でたずねると、
「……ツカサも寝ていたの?」
「いや、起きてはいたけど……」
翠のきょとんとした表情に笑みを零す。
「翠を放すのがもったいなくて離れられなかった」
「もったいないって……」
翠はものすごく意外そうな顔をするけど、穏やかな表情で眠る翠が貴重に思えるのは俺だけじゃないと思う。
きっと、翠の家族や秋兄だって同じことを思うはずだ。
もっとも、秋兄に翠の寝顔なんてそう易々と見せてやるつもりはないけれど。
「眠っている翠を心ゆくまで見られることや、翠が起きる瞬間に側にいられるのは貴重。……何より、腕の中で穏やかな寝息を立てる翠を見ていると幸せに浸れる」
思っていることを素直に伝え口付けると、どうしたことか翠は落ち着きなく慌て始めた。
そんな翠を腕に閉じ込めるように抱きしめると、堪えることができずに本音が漏れる。
「ものすごく帰りたくない……」
このままずっと、翠とここで暮らしていきたいくらいだ。
邪魔な人間たちは今日で帰るし、ここには音大ヤローが立ち入ることもない。ただ、星見荘にはピアノがないから、翠がピアノを弾く際には陽だまり荘へ下りる必要がある。
そんな算段を立てたところで、今日帰らなくちゃいけない現実は変わらない。
渋々現実へ目を向けるために時刻の確認をすると、まだ八時過ぎだった。
「思ったより起きるの早かったな」
「何時?」
「八時過ぎ」
五時間しか寝てない換算だが――
なんとなしに翠の手首を掴み脈を確認すると、拍動は弱いものの、脈自体は整脈。
ま、五時間寝ていれば、不整脈が頻発することはないだろう。
「二泊三日、とても楽しくて、すごく幸せな時間だったね?」
にこにこと笑いながら話す翠に見惚れながら返事をするも、俺と翠の間にある二十センチの距離すらもどかしい。
結果、翠を抱き寄せ柔らかな髪に顔を埋める。と、
「どうしたの? なんか甘えられてる気分」
翠はクスクスと笑う。
「甘えたい気分」と返答すると、翠はびっくり眼で見返してきた。
「そんな日だってある」
翠は天使のように優しい表情になり、右手で俺の前髪をかき上げると、額にそっとキスをしてくれた。
天使にキスをしてもらった気分で目を閉じると、
「でも、どうせだからきちんと起きてご飯を食べて、出発の時間までボートに乗るなり、納涼床へ行くなり、もう少し有意義な過ごし方をしない?」
俺は目を開け、
「これも十分有意義だと思うけど?」
「そうなんだけど、ここでしかできない過ごし方というかなんというか……」
翠が言うこともわからなくはない。
藤倉へ戻ったとしても、ベッドの上でこんなふうに過ごすことはできるが、ボートに乗ったり納涼床へ行くことはできないわけで……。
そうとわかっていても、翠を放したくないと思う。
自分にこんなにも固執する対象ができるとは、思いもしなかった。
翠は意外なものでも見るような目で見てくる。さすがに少し恥ずかしくなり、俺が視線を逸らすと、翠はそんな俺を宥めるように口を開く。
「また、来よう? 次に来られるとしたら冬休みかな……? でもここ、冬は雪が積もるよね?」
確かに、次に旅行へ来るとしたら冬休みになる。けど、その時点で俺たちはまだ二十歳にはなっていない。ということは、今回同様同行者が必要になるわけで――
「冬に来るとしたら陽だまり荘だけど、それで同行者もいるとか最悪だから、その際には違う場所を見繕う」
「白野のステラハウスも、プラネットパレスもいいね? そのほかのパレスは小さいころに行ったことがあるのだけど、私、小さくてあまり覚えてないの」
「なら、ほかのパレスでもいいんじゃない?」
「うん! 今度、静さんにパンフレットもらってくる! さ、起きよう?」
翠はゆっくりと身体を起こすと、まだ寝ている俺の手を引っ張るようにして起こそうとした。
でも往生際の悪い俺は、翠の手を掴みなおしてベッドへ引き摺り戻す。
「これが最後だから」
言いながら翠に近づき、トラブル知らずの頬に手を添えると心赴くままに口付けた。
朝食を持ってきた稲荷さんは、ハムエッグだけは星見荘のキッチンで作り、出来立ての温かな料理がテーブルに並んだ。
翠は今日もサラダから手をつけ、素材を堪能するように咀嚼しては満足げに飲み込む。そして、
「このあとどうする?」
「納涼床までは距離があるから行くなら車だな。もしくはここでボート。どっちがいい?」
「そうだなぁ……。どうせだったらふたりきりでいたいものね。ボートかな?」
こんな言葉で気を良くするのだから、俺は相当単純なのだろう。
心に余裕ができると少しの優しさが生まれるようで、
「場合によっては陽だまり荘へ下りてもかまわないけど?」
気づけばそんな提案を口にしていた。
翠はというと、中途半端に口を開け、不思議そうな顔をしている。
「簾条はともかくとして、雅さんとそんなに話せてないだろ? 昨日、秋兄たちに予定を聞いたら、藤倉へ帰ったら仕事の打ち合わせをしたあとじーさんに会いに行って、明日には帰国するらしい」
「そうなのね……」
翠は右へ左へと頭を揺らしながら、悩み始めた。
たぶん、俺とふたりきりで過ごしたいというのも本音。だけど、雅さんともう少し話したという気持ちも捨てきることができないのだろう。
あまりにも真剣に悩む翠が愛おしく、思わず笑みが漏れる。と、
「ツカサ……?」
「それ以上悩まなくていい」
「え……?」
「朝食を食べ終えたら荷物をまとめて陽だまり荘へ下りよう」
「でも――」
「二泊三日、割と翠を独り占めできたと思うし、ふたりきりで過ごすだけならここじゃなくてもできるだろ?」
「そうだけれど……。いいの?」
「問題ない」
第一に俺と過ごすことを提案してくれたのが嬉しかったし、合理的に考えれば、遠方に住まう雅さんを優先するのが妥当。
なのに、真剣に俺と雅さんの間で悩んでくれたことが嬉しかったから、今回は雅さんに翠を譲ろうと思う。
相手が男ならそんな気は微塵も起きなかったと思うけど、相手が同性なら話は別。
翠に付き合ってのんびりと朝食を摂ったあと、俺たちは早々に荷物をまとめ、三日間お世話になった星見荘に礼をして陽だまり荘へ向かうことにした。
翠の希望で荷物は高遠さんに任せ、俺たちは木道ならぬ階段を下りることに。
階段を目にした翠は、
「うわぁ……先の先まで階段だ」
「そう。こっちは全部階段といっても過言じゃない」
「さすがに、食後にこの階段を上るのはきつかったかな?」
翠はクスクスと笑いながら俺と手をつなぎ、もう片方の手は手すりを掴んで階段を下り始めた。
翠の手はいつだって少しひんやりとしているけれど、寝起きの翠と比べると、だいぶ冷えた手で少し不安になる。
「寒かったりする?」
「え? あ、手、冷たい?」
「少し」
「でも、大丈夫だよ。夜の屋外は寒かったけど、今はひんやりしていて気持ちがいいくらい。夏がいつもこんな気温だったらいいのになぁ……」
そんなことをぼやいては、藤倉の気温を気にする。
スマホでチェックすると、
「あっちの今日の最高気温は三十四度だって」
「うわぁ……今からものすごくかまえちゃう。血圧、下っちゃうかなぁ……。ここにいるときはさほど眩暈も感じずに過ごせたんだけどな」
「じゃ、来年からは夏休みの半分はこっちで過ごす? 陽だまり荘に下りればピアノの練習もできるけど?」
「それはとっても魅力的な提案!」
「来年になれば二十歳だ。未成年じゃなくなるから引率者も必要なくなる」
「じゃ、ここにいる間、ずっとふたりきりだね」
そう言って笑顔で振り返った翠の頭に木漏れ日が当たっていて、頭にくっきりと天使の輪が浮かび上がる。
その光景は、心臓が止まりそうなほど美しく見えた。
「天使の梯子」とは、雲間から差し込む光のみを指すのだろうか。それとも木漏れ日も含まれる……?
まるで今にも天へ昇っていってしまいそうな情景に、俺は慌てて翠を引き寄せる。と、翠はものすごく驚いた様子だったが、俺の目を見るとキスを察してか目を閉じてくれた。
俺は誘われるように翠に口付ける。心行くまで――または、翠を地上に引き止めるように。
唇を放すと、
「……まだ帰りたくないって思ってるの?」
「悪いか……」
「悪くはないけど、珍しいなとは思ってる」
「俺だって好きなものには執着する」
翠はトントンと階段を二段上がって視線の高さを揃えると、自分から俺にキスをした。
「向こうに帰ってもあと一週間は夏休みだよ」
そう言うと、翠は再度俺と手をつなぎ、俺を引っ張るように階段を下り始めた。
今日は翠を乗せて高速道路を運転するわけで、少しの不安要素も残してはおきたくない。
そう思った俺は、身体を起こすことなく、もうしばらく休むことにした。
しかし、習慣というのはそうそう変えることはできないらしい。なかなか寝入ることができず、すでに三十分近い時間が経過している。
仕方なく枕元に置いてある腕時計を身につけるも、身体を起こすには至らない。
今日が最終日と思えば余計に、翠の側を離れることが惜しくて。
不意に隣に眠る翠へ視線を向けると、翠はこちらを向いてぐっすりと眠っていた。
翠の手は俺の長袖Tシャツの裾を軽く摘んでいて、それがひどくかわいく思えた。
健やかな寝息は規則正しく、胸が上下に動くのと連動している。
表情はいたって穏やかで、入院していたときの寝顔とは雲泥の差。
それがこんなにも嬉しい。
受験が終わってから緊張が緩んだのか、眩暈を起こす日も少なくはなかったが、ここにいる間は比較的元気に過ごせていたと思う。
翠が健やかに笑顔で過ごせることが何よりも大切で、自分にその手助けができたなら、と何度となく思ってきた。
もともと医者にはなるつもりでいたけれど、翠と出逢ってからは、それまで以上に医学の知識を欲したし、今以上に翠の体調管理をできたら……という思いばかりが強くなる。
どうやら、栞さんの側にいるために医者になったという昇さんのことを、どうこう言える立場ではなくなってしまったようだ。
本当、困るくらいに俺のあれこれを変えて行く。
その愛しい存在が寝返りを打った瞬間に首の下へ右腕を通し、後ろから抱きしめるように身体を重ねる。と、翠は無意識で腕枕になった俺の右手に自分の手を添えた。
そのまま翠を抱きしめうつらうつらすること数時間。翠がもごもごと身動きを始める。
目を開けて確認すると、パッチリと開いた大きな目が視界に入った。
「起きた?」
小声でたずねると、
「……ツカサも寝ていたの?」
「いや、起きてはいたけど……」
翠のきょとんとした表情に笑みを零す。
「翠を放すのがもったいなくて離れられなかった」
「もったいないって……」
翠はものすごく意外そうな顔をするけど、穏やかな表情で眠る翠が貴重に思えるのは俺だけじゃないと思う。
きっと、翠の家族や秋兄だって同じことを思うはずだ。
もっとも、秋兄に翠の寝顔なんてそう易々と見せてやるつもりはないけれど。
「眠っている翠を心ゆくまで見られることや、翠が起きる瞬間に側にいられるのは貴重。……何より、腕の中で穏やかな寝息を立てる翠を見ていると幸せに浸れる」
思っていることを素直に伝え口付けると、どうしたことか翠は落ち着きなく慌て始めた。
そんな翠を腕に閉じ込めるように抱きしめると、堪えることができずに本音が漏れる。
「ものすごく帰りたくない……」
このままずっと、翠とここで暮らしていきたいくらいだ。
邪魔な人間たちは今日で帰るし、ここには音大ヤローが立ち入ることもない。ただ、星見荘にはピアノがないから、翠がピアノを弾く際には陽だまり荘へ下りる必要がある。
そんな算段を立てたところで、今日帰らなくちゃいけない現実は変わらない。
渋々現実へ目を向けるために時刻の確認をすると、まだ八時過ぎだった。
「思ったより起きるの早かったな」
「何時?」
「八時過ぎ」
五時間しか寝てない換算だが――
なんとなしに翠の手首を掴み脈を確認すると、拍動は弱いものの、脈自体は整脈。
ま、五時間寝ていれば、不整脈が頻発することはないだろう。
「二泊三日、とても楽しくて、すごく幸せな時間だったね?」
にこにこと笑いながら話す翠に見惚れながら返事をするも、俺と翠の間にある二十センチの距離すらもどかしい。
結果、翠を抱き寄せ柔らかな髪に顔を埋める。と、
「どうしたの? なんか甘えられてる気分」
翠はクスクスと笑う。
「甘えたい気分」と返答すると、翠はびっくり眼で見返してきた。
「そんな日だってある」
翠は天使のように優しい表情になり、右手で俺の前髪をかき上げると、額にそっとキスをしてくれた。
天使にキスをしてもらった気分で目を閉じると、
「でも、どうせだからきちんと起きてご飯を食べて、出発の時間までボートに乗るなり、納涼床へ行くなり、もう少し有意義な過ごし方をしない?」
俺は目を開け、
「これも十分有意義だと思うけど?」
「そうなんだけど、ここでしかできない過ごし方というかなんというか……」
翠が言うこともわからなくはない。
藤倉へ戻ったとしても、ベッドの上でこんなふうに過ごすことはできるが、ボートに乗ったり納涼床へ行くことはできないわけで……。
そうとわかっていても、翠を放したくないと思う。
自分にこんなにも固執する対象ができるとは、思いもしなかった。
翠は意外なものでも見るような目で見てくる。さすがに少し恥ずかしくなり、俺が視線を逸らすと、翠はそんな俺を宥めるように口を開く。
「また、来よう? 次に来られるとしたら冬休みかな……? でもここ、冬は雪が積もるよね?」
確かに、次に旅行へ来るとしたら冬休みになる。けど、その時点で俺たちはまだ二十歳にはなっていない。ということは、今回同様同行者が必要になるわけで――
「冬に来るとしたら陽だまり荘だけど、それで同行者もいるとか最悪だから、その際には違う場所を見繕う」
「白野のステラハウスも、プラネットパレスもいいね? そのほかのパレスは小さいころに行ったことがあるのだけど、私、小さくてあまり覚えてないの」
「なら、ほかのパレスでもいいんじゃない?」
「うん! 今度、静さんにパンフレットもらってくる! さ、起きよう?」
翠はゆっくりと身体を起こすと、まだ寝ている俺の手を引っ張るようにして起こそうとした。
でも往生際の悪い俺は、翠の手を掴みなおしてベッドへ引き摺り戻す。
「これが最後だから」
言いながら翠に近づき、トラブル知らずの頬に手を添えると心赴くままに口付けた。
朝食を持ってきた稲荷さんは、ハムエッグだけは星見荘のキッチンで作り、出来立ての温かな料理がテーブルに並んだ。
翠は今日もサラダから手をつけ、素材を堪能するように咀嚼しては満足げに飲み込む。そして、
「このあとどうする?」
「納涼床までは距離があるから行くなら車だな。もしくはここでボート。どっちがいい?」
「そうだなぁ……。どうせだったらふたりきりでいたいものね。ボートかな?」
こんな言葉で気を良くするのだから、俺は相当単純なのだろう。
心に余裕ができると少しの優しさが生まれるようで、
「場合によっては陽だまり荘へ下りてもかまわないけど?」
気づけばそんな提案を口にしていた。
翠はというと、中途半端に口を開け、不思議そうな顔をしている。
「簾条はともかくとして、雅さんとそんなに話せてないだろ? 昨日、秋兄たちに予定を聞いたら、藤倉へ帰ったら仕事の打ち合わせをしたあとじーさんに会いに行って、明日には帰国するらしい」
「そうなのね……」
翠は右へ左へと頭を揺らしながら、悩み始めた。
たぶん、俺とふたりきりで過ごしたいというのも本音。だけど、雅さんともう少し話したという気持ちも捨てきることができないのだろう。
あまりにも真剣に悩む翠が愛おしく、思わず笑みが漏れる。と、
「ツカサ……?」
「それ以上悩まなくていい」
「え……?」
「朝食を食べ終えたら荷物をまとめて陽だまり荘へ下りよう」
「でも――」
「二泊三日、割と翠を独り占めできたと思うし、ふたりきりで過ごすだけならここじゃなくてもできるだろ?」
「そうだけれど……。いいの?」
「問題ない」
第一に俺と過ごすことを提案してくれたのが嬉しかったし、合理的に考えれば、遠方に住まう雅さんを優先するのが妥当。
なのに、真剣に俺と雅さんの間で悩んでくれたことが嬉しかったから、今回は雅さんに翠を譲ろうと思う。
相手が男ならそんな気は微塵も起きなかったと思うけど、相手が同性なら話は別。
翠に付き合ってのんびりと朝食を摂ったあと、俺たちは早々に荷物をまとめ、三日間お世話になった星見荘に礼をして陽だまり荘へ向かうことにした。
翠の希望で荷物は高遠さんに任せ、俺たちは木道ならぬ階段を下りることに。
階段を目にした翠は、
「うわぁ……先の先まで階段だ」
「そう。こっちは全部階段といっても過言じゃない」
「さすがに、食後にこの階段を上るのはきつかったかな?」
翠はクスクスと笑いながら俺と手をつなぎ、もう片方の手は手すりを掴んで階段を下り始めた。
翠の手はいつだって少しひんやりとしているけれど、寝起きの翠と比べると、だいぶ冷えた手で少し不安になる。
「寒かったりする?」
「え? あ、手、冷たい?」
「少し」
「でも、大丈夫だよ。夜の屋外は寒かったけど、今はひんやりしていて気持ちがいいくらい。夏がいつもこんな気温だったらいいのになぁ……」
そんなことをぼやいては、藤倉の気温を気にする。
スマホでチェックすると、
「あっちの今日の最高気温は三十四度だって」
「うわぁ……今からものすごくかまえちゃう。血圧、下っちゃうかなぁ……。ここにいるときはさほど眩暈も感じずに過ごせたんだけどな」
「じゃ、来年からは夏休みの半分はこっちで過ごす? 陽だまり荘に下りればピアノの練習もできるけど?」
「それはとっても魅力的な提案!」
「来年になれば二十歳だ。未成年じゃなくなるから引率者も必要なくなる」
「じゃ、ここにいる間、ずっとふたりきりだね」
そう言って笑顔で振り返った翠の頭に木漏れ日が当たっていて、頭にくっきりと天使の輪が浮かび上がる。
その光景は、心臓が止まりそうなほど美しく見えた。
「天使の梯子」とは、雲間から差し込む光のみを指すのだろうか。それとも木漏れ日も含まれる……?
まるで今にも天へ昇っていってしまいそうな情景に、俺は慌てて翠を引き寄せる。と、翠はものすごく驚いた様子だったが、俺の目を見るとキスを察してか目を閉じてくれた。
俺は誘われるように翠に口付ける。心行くまで――または、翠を地上に引き止めるように。
唇を放すと、
「……まだ帰りたくないって思ってるの?」
「悪いか……」
「悪くはないけど、珍しいなとは思ってる」
「俺だって好きなものには執着する」
翠はトントンと階段を二段上がって視線の高さを揃えると、自分から俺にキスをした。
「向こうに帰ってもあと一週間は夏休みだよ」
そう言うと、翠は再度俺と手をつなぎ、俺を引っ張るように階段を下り始めた。