光のもとでⅡ+
Side 司 01話
俺としたことが、昨夜は気持ちを切り替えることがまったくできず、一睡もできなかった――
屋上から戻り、翠が食べたホットケーキのプレートやカップを片付けたら藤山へ帰る予定でいたが、片付けている間も頭の中は翠でいっぱいで、ほかのことを考えようとしてもうまくはいかず、射法八節を持ち出しても翠を頭から追い払うことは叶わなかった。
結果、数時間前のことを思い出しては身悶えする、を延々繰り返すこととなる。
あんな形で翠が感じていたことを知る羽目になるとは思いもしなかったし、多少強引に事を進めた感は否めないが、それでも最後までできるとは思っていなかった。段階を踏まなければ、最後までできるとは思っていなかった。
あとになって翠の身体に無理をさせてしまったのでは、と考えたものの、それを上回る多幸感に完全に呑まれていた。
そして、俺に乱された翠を思い返しては、自分の一物が興奮する。そんなことを繰り返しているうちに夜は明け、朝になっていた。
大した睡眠も取れていない割に身体や頭はすっきりしていて、シャワーを浴びた俺は少し早いことを自覚しながらも、ミュージックルームへ向かった。
玄関を出た瞬間、いつもと同じ景色がなんとなく輝いて見えたりするから、自分にいったいどれだけの変化が起こったのか、と思う。
ミュージックルームへ入ると翠の警護班のふたりが部屋のチェックをしているところだった。
「司様、おはようございます。今日はお早いですね?」
「早く起きすぎた」
素っ気無く答えると、
「さようでございますか」
言いながら最後のチェックと思しき防犯カメラのチェックを済ませ、一礼して部屋から出て行った。
俺は室内の窓をすべて開け放ち、部屋の空気を入れ替える。
朝はまだ二十度を切る日もあり、少し冷たい清々しい風が室内に舞い込んだ。
その風が気に入った俺は窓際に留まり、そこから見える誰もいない公園を見下ろしていた。
なんてことのないマンション敷地内の公園。でも、朝陽を浴びた遊具ですら輝いて見えるから困る。
奇妙な感覚を体験していると、ミシッという、防音室独特のドアが開く音がした。
音に誘われるようにそちらを見ると、武政さんにドアを開けられた翠が入ってくるところだった。
その姿を一目見て、釘付けになる。
いつもルームウェアを着てくる翠が、今日は見たことのないワンピースを着て、さらには髪の毛を全体的に緩く巻いてやってきた。
そうか、今日は市街へ出かけるから――
合点はいったが、翠はどうして入り口から数歩で歩みを止めてしまったのか……。
翠は俺を見たまま呆然と立ち尽くしている。
「何?」
「……ううん、なんでもない」
いや、絶対何かあっただろ……。
未だぼーっとしている翠を手招きで窓際まで呼び寄せると、
「身体、つらくない?」
「身体……?」
翠は意味がわからないとでもいうように首を傾げてみせる。そして、ポシェットからスマホを取り出すと、
「えぇと、血圧はいつもと変わらないし、脈拍も熱も問題ないと思うのだけど……」
スマホをこちらへ向けられるから呆れたくもなる。
「違くて……」
見当違いもいいところだ。でも、こういうのが翠なわけで……。
「違うって、どういう意味?」
きょとんとした顔でたずねられ、
「だから――昨日の今日で身体、つらくないのかって意味」
そこまで話しても要領を得ない顔をしていた。そして数秒経過してはっとした顔になる。
その顔はじわじわと赤く染まり始め、
「えぇと……だいじょぶ、です……」
「出血とかしなかった?」
行為のあと、血が滲んでいたのには気づいていたが、その後のことはたずねないとわからない。
翠は小さな声で、
「昨夜は少し……。でも、今朝には治まってたから、大丈夫」
「ならいいけど……」
翠は視線を合わせることなく、
「心配してくれて、ありがとう……」
そう言うと、俺の胸に額を預けた。
やばい――
昨日の今日でこんなかわいいことをされると、すぐにでも己が熱を持つ。
俺はヒヤヒヤしながら、
「気にしないわけないだろ」
一言吐き捨て、翠から離れてソファへ向かうことにした。
なんて恐ろしい……。
今日、あと何度こんなことが起こるのだろう。
自制心でどこまで自分を律することができるのか――
そんなことを考えながら平常心を取り戻すべく、ノートパソコンを立ち上げた。
そこから三時間半ちょっと、ネットで情報収集をしながら株の取引をしていたわけだが、残り三十分といったところで翠のバッハが耳に届いた。
運指はスムーズできちんと三声の弾き分けもできている。少し前までの演奏と比べると、格段に精度が上がっていた。
ピアノの近くまで行っても翠が俺に気づくことはない。
十二時になりスマホのアラームが鳴って、ようやく顔を上げ俺に気づく。
「バッハ、だいぶよくなったんじゃない?」
「本当っ!?」
「一月と比べたらずいぶんよくなったと思う。次のレッスンで仙波さんにも言われるんじゃない?」
あの人は過大評価はしないが、良くなったものに対してはきちんと評価をする。
翠は上機嫌で楽譜を片付け始め、ソファへ向かって弾んだ調子で歩き出す。
するとその反動に髪が連動して、緩いウェーブがふわふわと波打った。
「もう行く?」
「一度ゲストルームに戻ってもいい? 楽譜を置いて、違うバッグに変えてきたいの」
「了解。じゃ、エントランスで待ってる」
「うん」
翠がミュージックルームを出て行ったのを確認して、大きなため息をつく。
Aラインの水色のワンピース、すごい似合ってたし、長い髪がくるくる巻かれててかわいいし、俺がプレゼントしたコロンの匂いがふわって香るのとか殺人的なんだけど……。
「翠のことだから全然意識してないんだろうな……」
今日、何回くらい試されるシーンがあるんだか……。
若干頭痛がしてきそうな頭を片手で押さえつつ、パソコンのシャットダウンを始めた。
エントランスで翠を待っていると、翠は五分ほどで下りてきた。ものすごくどうでもいい人間を引き連れて。
エレベーターのドアが開くなり、ご機嫌な足取りで降りてきたのは唯さん。
「うーわっ、本当だ。いつもとちょっと違う。何このやたらめったら格好いい男っ」
意味のわからない文言に、「でしょうっ!?」と翠が便乗する。
「これは格好いいわ……この俺が唸っちゃう程度には」
「そうなのっ! 私も朝見たときつい見惚れちゃったのっ!」
それは初耳……。
……あぁ、ミュージックルームに入った途端足を止めたのは、そういうことだったのか。
うざったい視線を振り払い、
「翠、何唯さん連れてきてるの?」
笑顔を貼り付け遠まわしにいやみを言うと、
「あ……えと、ツカサがいつもと雰囲気の違うお洋服着てるって話したら、見たいって話になって
――」
別にそういう話が聞きたいわけじゃなくて、なんで俺の機嫌が悪くなると知っていてこの男を連れてきたのか、と問いたかったわけなんだけど。
そんなことにも気づかない翠は、「だめだった……?」という視線を向けてくる。
翠は今日も安定の天然鈍感大魔王だ……。
「じゃ、もう用は済んだんですよね?」
笑顔を貼り付けたまま唯さんを見下ろすと、天使の顔をした悪魔が口を開く。
「済んだ済んだ! なんつーか、ホント、むかつくくらいに格好いーよねっ! 何? 俺大学生になるから服装も変えちゃおっかな、的なアレ? だったら俺は、中折れハットの追加を勧めるねっ!」
「黙れ社蓄……」
うかつに口を開くと何を吐露するかわかったものじゃない。
俺は翠の手を掴み、翠の歩幅を考慮することなくエントランスを歩き始めた。その後方で、
「社蓄って言った!? やっ、強ち間違っちゃいけないけど、ちょ、司っちっ!?」
「社蓄で十分。黙れカスが……」
俺に引き摺られるようにして歩いていた翠は、こんな状況にも関わらず、しっかりと「いってきます」の挨拶をしてエントランスを出た。
屋上から戻り、翠が食べたホットケーキのプレートやカップを片付けたら藤山へ帰る予定でいたが、片付けている間も頭の中は翠でいっぱいで、ほかのことを考えようとしてもうまくはいかず、射法八節を持ち出しても翠を頭から追い払うことは叶わなかった。
結果、数時間前のことを思い出しては身悶えする、を延々繰り返すこととなる。
あんな形で翠が感じていたことを知る羽目になるとは思いもしなかったし、多少強引に事を進めた感は否めないが、それでも最後までできるとは思っていなかった。段階を踏まなければ、最後までできるとは思っていなかった。
あとになって翠の身体に無理をさせてしまったのでは、と考えたものの、それを上回る多幸感に完全に呑まれていた。
そして、俺に乱された翠を思い返しては、自分の一物が興奮する。そんなことを繰り返しているうちに夜は明け、朝になっていた。
大した睡眠も取れていない割に身体や頭はすっきりしていて、シャワーを浴びた俺は少し早いことを自覚しながらも、ミュージックルームへ向かった。
玄関を出た瞬間、いつもと同じ景色がなんとなく輝いて見えたりするから、自分にいったいどれだけの変化が起こったのか、と思う。
ミュージックルームへ入ると翠の警護班のふたりが部屋のチェックをしているところだった。
「司様、おはようございます。今日はお早いですね?」
「早く起きすぎた」
素っ気無く答えると、
「さようでございますか」
言いながら最後のチェックと思しき防犯カメラのチェックを済ませ、一礼して部屋から出て行った。
俺は室内の窓をすべて開け放ち、部屋の空気を入れ替える。
朝はまだ二十度を切る日もあり、少し冷たい清々しい風が室内に舞い込んだ。
その風が気に入った俺は窓際に留まり、そこから見える誰もいない公園を見下ろしていた。
なんてことのないマンション敷地内の公園。でも、朝陽を浴びた遊具ですら輝いて見えるから困る。
奇妙な感覚を体験していると、ミシッという、防音室独特のドアが開く音がした。
音に誘われるようにそちらを見ると、武政さんにドアを開けられた翠が入ってくるところだった。
その姿を一目見て、釘付けになる。
いつもルームウェアを着てくる翠が、今日は見たことのないワンピースを着て、さらには髪の毛を全体的に緩く巻いてやってきた。
そうか、今日は市街へ出かけるから――
合点はいったが、翠はどうして入り口から数歩で歩みを止めてしまったのか……。
翠は俺を見たまま呆然と立ち尽くしている。
「何?」
「……ううん、なんでもない」
いや、絶対何かあっただろ……。
未だぼーっとしている翠を手招きで窓際まで呼び寄せると、
「身体、つらくない?」
「身体……?」
翠は意味がわからないとでもいうように首を傾げてみせる。そして、ポシェットからスマホを取り出すと、
「えぇと、血圧はいつもと変わらないし、脈拍も熱も問題ないと思うのだけど……」
スマホをこちらへ向けられるから呆れたくもなる。
「違くて……」
見当違いもいいところだ。でも、こういうのが翠なわけで……。
「違うって、どういう意味?」
きょとんとした顔でたずねられ、
「だから――昨日の今日で身体、つらくないのかって意味」
そこまで話しても要領を得ない顔をしていた。そして数秒経過してはっとした顔になる。
その顔はじわじわと赤く染まり始め、
「えぇと……だいじょぶ、です……」
「出血とかしなかった?」
行為のあと、血が滲んでいたのには気づいていたが、その後のことはたずねないとわからない。
翠は小さな声で、
「昨夜は少し……。でも、今朝には治まってたから、大丈夫」
「ならいいけど……」
翠は視線を合わせることなく、
「心配してくれて、ありがとう……」
そう言うと、俺の胸に額を預けた。
やばい――
昨日の今日でこんなかわいいことをされると、すぐにでも己が熱を持つ。
俺はヒヤヒヤしながら、
「気にしないわけないだろ」
一言吐き捨て、翠から離れてソファへ向かうことにした。
なんて恐ろしい……。
今日、あと何度こんなことが起こるのだろう。
自制心でどこまで自分を律することができるのか――
そんなことを考えながら平常心を取り戻すべく、ノートパソコンを立ち上げた。
そこから三時間半ちょっと、ネットで情報収集をしながら株の取引をしていたわけだが、残り三十分といったところで翠のバッハが耳に届いた。
運指はスムーズできちんと三声の弾き分けもできている。少し前までの演奏と比べると、格段に精度が上がっていた。
ピアノの近くまで行っても翠が俺に気づくことはない。
十二時になりスマホのアラームが鳴って、ようやく顔を上げ俺に気づく。
「バッハ、だいぶよくなったんじゃない?」
「本当っ!?」
「一月と比べたらずいぶんよくなったと思う。次のレッスンで仙波さんにも言われるんじゃない?」
あの人は過大評価はしないが、良くなったものに対してはきちんと評価をする。
翠は上機嫌で楽譜を片付け始め、ソファへ向かって弾んだ調子で歩き出す。
するとその反動に髪が連動して、緩いウェーブがふわふわと波打った。
「もう行く?」
「一度ゲストルームに戻ってもいい? 楽譜を置いて、違うバッグに変えてきたいの」
「了解。じゃ、エントランスで待ってる」
「うん」
翠がミュージックルームを出て行ったのを確認して、大きなため息をつく。
Aラインの水色のワンピース、すごい似合ってたし、長い髪がくるくる巻かれててかわいいし、俺がプレゼントしたコロンの匂いがふわって香るのとか殺人的なんだけど……。
「翠のことだから全然意識してないんだろうな……」
今日、何回くらい試されるシーンがあるんだか……。
若干頭痛がしてきそうな頭を片手で押さえつつ、パソコンのシャットダウンを始めた。
エントランスで翠を待っていると、翠は五分ほどで下りてきた。ものすごくどうでもいい人間を引き連れて。
エレベーターのドアが開くなり、ご機嫌な足取りで降りてきたのは唯さん。
「うーわっ、本当だ。いつもとちょっと違う。何このやたらめったら格好いい男っ」
意味のわからない文言に、「でしょうっ!?」と翠が便乗する。
「これは格好いいわ……この俺が唸っちゃう程度には」
「そうなのっ! 私も朝見たときつい見惚れちゃったのっ!」
それは初耳……。
……あぁ、ミュージックルームに入った途端足を止めたのは、そういうことだったのか。
うざったい視線を振り払い、
「翠、何唯さん連れてきてるの?」
笑顔を貼り付け遠まわしにいやみを言うと、
「あ……えと、ツカサがいつもと雰囲気の違うお洋服着てるって話したら、見たいって話になって
――」
別にそういう話が聞きたいわけじゃなくて、なんで俺の機嫌が悪くなると知っていてこの男を連れてきたのか、と問いたかったわけなんだけど。
そんなことにも気づかない翠は、「だめだった……?」という視線を向けてくる。
翠は今日も安定の天然鈍感大魔王だ……。
「じゃ、もう用は済んだんですよね?」
笑顔を貼り付けたまま唯さんを見下ろすと、天使の顔をした悪魔が口を開く。
「済んだ済んだ! なんつーか、ホント、むかつくくらいに格好いーよねっ! 何? 俺大学生になるから服装も変えちゃおっかな、的なアレ? だったら俺は、中折れハットの追加を勧めるねっ!」
「黙れ社蓄……」
うかつに口を開くと何を吐露するかわかったものじゃない。
俺は翠の手を掴み、翠の歩幅を考慮することなくエントランスを歩き始めた。その後方で、
「社蓄って言った!? やっ、強ち間違っちゃいけないけど、ちょ、司っちっ!?」
「社蓄で十分。黙れカスが……」
俺に引き摺られるようにして歩いていた翠は、こんな状況にも関わらず、しっかりと「いってきます」の挨拶をしてエントランスを出た。