光のもとでⅡ+
Side 司 08話
「ね、そろそろケーキ食べない?」
「もうそんな時間?」
「うん。七時半」
翠を手放すのが惜しくありつつも、ケーキを食べてもあと一時間は一緒にいられる。そんな思いで翠を手放すと、翠はゆっくりと立ち上がりキッチンへ向かった。
「お茶は――デカフェのアップルティーにしようか?」
翠の提案に頷き、先日加わったばかりのデカフェの紅茶缶を下ろす。
「ケーキはなんなの?」
「フルーツタルトだよ」
「なんのフルーツ?」
意外と欲張りな翠のことだからミックスフルーツ、もしくは翠が好きな苺のタルトかと思いきや、シャインマスカットのタルトだった。
「ツカサはフルーツの甘さなら大丈夫なのでしょう?」
「あぁ……」
「で、カスタードは七倉さんにお願いして甘さ控えめのものにしてもらったの。さらにはこのシロップをかけていただくのだけど、なんだと思う?」
「シロップなんだろ?」
「うん。でも、甘いシロップとはちょっと違うの。匂い嗅いでみて?」
渡されたプラ容器に鼻を近づけると、
「ローズマリー……?」
「当たり! これをかけて食べるんだって。カスタードやフルーツが多少甘くても、さっぱりと食べられそうでしょう?」
翠はよほど自信があるのか、満面の笑みで直径十センチほどのタルトをこちらへ向けた。
ダイニングへ行くと、翠はスマホを何度かタップする。と、オルゴールの音でハッピーバースデートゥーユーの曲が流れだす。それに合わせて、翠は小さな声でハッピーバースデートゥーユーを歌ってくれた。
「お誕生日おめでとうっ!」
小さいホールタルトに挿されたキャンドルの火を消すよう促され、「ふっ」と一気に吹き消すと、翠が拍手をしてくれた。
すぐにダイニングの照明を点け、ケーキナイフでカットを始める。
半分に切り分けられたケーキをプレートへ移し、シロップをかけ終わるとふたり揃って「いただきます」。
翠も俺もシャインマスカットから食べ始めた。
「甘いねっ!」
「あぁ。でも、あとを引く甘さじゃないから食べやすい」
次はカスタードをフォークの先に少し取って食べてみる。
その動作を、翠が心配そうに見つめていた。
「どう? 甘い? だめそう?」
「いや、甘さ控えめでおいしいと思う。それにローズマリーの香りがいいスパイスになってる」
「よかったぁっ!」
翠はほっとしたのか、パクパクとおいしそうにタルトを食べ始めた。
ケーキを食べ終えたあとリビングへ移動すると、翠がタブレットを貸して欲しいと言い出した。
「何か調べもの?」
「うーん……調べものというより、芸大のサイトを見たくて」
「なんで?」
すでに受験科目などの情報は仙波さんから得ているだろうに。
「あのね、私、器楽科のピアノコースを受験しようと思っているのだけど、副科でハープを選択しようと思っていて――」
それは以前聞いて知っているけど……。
「でも、先日ちらっと見たら、お目当ての先生の名前がなくなっていたのよね……。それがちょっと気になって」
「目当ての先生がいたとして、その先生に教えてもらうことができたりするの?」
「そこはちょっとわからないのだけど、でも、私がやりたいのはグランドハープじゃなくて、アイリッシュハープなの」
「何が違うの?」
「グランドハープはクラシック寄りで、アイリッシュハープは民族音楽より……かな? あーでも、グランドハープは半音階を自由自在に使えるから、ジャズなんかも弾けたりするのだけど」
「アイリッシュハープは?」
「アイリッシュハープでもレバー操作をすれば半音階を使うことは可能なのだけど、演奏の途中でレバー操作をする都合上、グランドハープほど操作性能がいいわけじゃないというか……。あ、グランドハープはね、足元に六本のペダルがついていて、それをガタガタ踏むことによって半音階操作をするのよ」
そう言うと、翠はグランドハープの画像をネットから探しだし見せてくれた。
「グランドハープを習うとしたら、楽器のレンタルをしなくちゃいけなくなるし、できれば今使っているアイリッシュハープを習いたくて……。……やっぱりいなくなっちゃってる」
「なんていう先生?」
「加賀見正司かがみしょうじ先生」
名前を検索にかけると、割と多くの検索結果が表示された。その一覧のトップに、「倉敷芸術短期大学」と表示されている。
「この人、短大へ異動になったみたいだけど?」
「えっ? そうなのっ!?」
食いついた翠は、タブレットを舐める勢いで見始めた。
「本当だ……。この四月から短大へ異動になったのね……。しかも、短大のハープの先生って加賀見先生しかいないんだ……。っていうことは、ハープを選択したら、間違いなく加賀見先生に教えていただけるということよね……?」
「翠はピアノを勉強したいの? それともハープ?」
翠はきょとんとした顔で、
「どっちもだけど?」
翠は基本謙虚だが、ある一定の分野においてはひどく貪欲だ。これもそのひとつなのだろう。
普段あまり見ることのできない一面に、少し珍しいものを見た気分だった。
「受験、短大に変えようかな……」
「四大じゃなくていいの?」
「んー……確か、短大から四大へ編入手続きできる制度があったはず……」
翠は短大のサイトをざっと見て、
「あ、これっ!」
その項目をタップした。
「成績優秀者に限り、四大への編入を認める、か……」
「だから、成績如何によっては無理なのだけど」
そう言うと、翠は苦笑を見せた。
和やかな時間を過ごして八時五十分に翠をゲストルームへ送り届けると、俺は戻ってきた部屋でケーキプレートの片付けをしていた。
「別に洗い物とか気にしなくていいのにな……」
でも翠は気になるらしく、次にうちに来るときまでにゴム手袋を用意してくる、と言っていた。なら俺は、翠が持ってきたゴム手袋を吊るして保管できるように、クリップフックでも買ってこよう。
片付けが終わってからコーヒーをドリップし、リビングて一息つく。
翠を抱くことは断念せざるを得なかったけど、それでも十九年生きてきて、間違いなく一番幸せな誕生日を過ごせた。でも来年は――
俺は支倉へ拠点を移し、翠も新生活が始まる。果たして、こんなふうに時間が取れるのかも謎だ。
そのあたりのことを考えると、来年までに車を手に入れることが課題にあがる。
最初から支倉のマンションで一緒に暮らすという方法もなくはないが、おそらく翠はこの提案を呑みはしないだろう。
どうあっても、一度は自分の力で通うことにこだわるはず。
翠の体調に異変が現れるあたりが言い出し時だと思うけど、タイミングを見誤ると翠の身体に負担がかかりすぎ、リカバリに要する時間が長くなる。
そのあたりを加味すると、ひとまず唯さんと和解して、唯さんを味方につけてバイタルアプリを入れてもらう、が正解な気がする。
唯さんと和解、唯さんと和解、唯さんと和解――……。
そんなことをするくらいなら、秋兄に頭を下げるか……?
否、やっぱりここは唯さんを味方につけるほうが後々色々使える気がする。
それと、一年前と同様に、翠には黙って碧さんや零樹さんには同棲の話を先に通しておくという手もある。
婚約は許されても同棲は許されないだろうか。
しかし、碧さんと零樹さんは学生結婚だし、こういったことに対してはうちの親よりも頭が柔らかい気がする。
そんなことを考えているうちに、幸せな一日は幕を下ろした――
「もうそんな時間?」
「うん。七時半」
翠を手放すのが惜しくありつつも、ケーキを食べてもあと一時間は一緒にいられる。そんな思いで翠を手放すと、翠はゆっくりと立ち上がりキッチンへ向かった。
「お茶は――デカフェのアップルティーにしようか?」
翠の提案に頷き、先日加わったばかりのデカフェの紅茶缶を下ろす。
「ケーキはなんなの?」
「フルーツタルトだよ」
「なんのフルーツ?」
意外と欲張りな翠のことだからミックスフルーツ、もしくは翠が好きな苺のタルトかと思いきや、シャインマスカットのタルトだった。
「ツカサはフルーツの甘さなら大丈夫なのでしょう?」
「あぁ……」
「で、カスタードは七倉さんにお願いして甘さ控えめのものにしてもらったの。さらにはこのシロップをかけていただくのだけど、なんだと思う?」
「シロップなんだろ?」
「うん。でも、甘いシロップとはちょっと違うの。匂い嗅いでみて?」
渡されたプラ容器に鼻を近づけると、
「ローズマリー……?」
「当たり! これをかけて食べるんだって。カスタードやフルーツが多少甘くても、さっぱりと食べられそうでしょう?」
翠はよほど自信があるのか、満面の笑みで直径十センチほどのタルトをこちらへ向けた。
ダイニングへ行くと、翠はスマホを何度かタップする。と、オルゴールの音でハッピーバースデートゥーユーの曲が流れだす。それに合わせて、翠は小さな声でハッピーバースデートゥーユーを歌ってくれた。
「お誕生日おめでとうっ!」
小さいホールタルトに挿されたキャンドルの火を消すよう促され、「ふっ」と一気に吹き消すと、翠が拍手をしてくれた。
すぐにダイニングの照明を点け、ケーキナイフでカットを始める。
半分に切り分けられたケーキをプレートへ移し、シロップをかけ終わるとふたり揃って「いただきます」。
翠も俺もシャインマスカットから食べ始めた。
「甘いねっ!」
「あぁ。でも、あとを引く甘さじゃないから食べやすい」
次はカスタードをフォークの先に少し取って食べてみる。
その動作を、翠が心配そうに見つめていた。
「どう? 甘い? だめそう?」
「いや、甘さ控えめでおいしいと思う。それにローズマリーの香りがいいスパイスになってる」
「よかったぁっ!」
翠はほっとしたのか、パクパクとおいしそうにタルトを食べ始めた。
ケーキを食べ終えたあとリビングへ移動すると、翠がタブレットを貸して欲しいと言い出した。
「何か調べもの?」
「うーん……調べものというより、芸大のサイトを見たくて」
「なんで?」
すでに受験科目などの情報は仙波さんから得ているだろうに。
「あのね、私、器楽科のピアノコースを受験しようと思っているのだけど、副科でハープを選択しようと思っていて――」
それは以前聞いて知っているけど……。
「でも、先日ちらっと見たら、お目当ての先生の名前がなくなっていたのよね……。それがちょっと気になって」
「目当ての先生がいたとして、その先生に教えてもらうことができたりするの?」
「そこはちょっとわからないのだけど、でも、私がやりたいのはグランドハープじゃなくて、アイリッシュハープなの」
「何が違うの?」
「グランドハープはクラシック寄りで、アイリッシュハープは民族音楽より……かな? あーでも、グランドハープは半音階を自由自在に使えるから、ジャズなんかも弾けたりするのだけど」
「アイリッシュハープは?」
「アイリッシュハープでもレバー操作をすれば半音階を使うことは可能なのだけど、演奏の途中でレバー操作をする都合上、グランドハープほど操作性能がいいわけじゃないというか……。あ、グランドハープはね、足元に六本のペダルがついていて、それをガタガタ踏むことによって半音階操作をするのよ」
そう言うと、翠はグランドハープの画像をネットから探しだし見せてくれた。
「グランドハープを習うとしたら、楽器のレンタルをしなくちゃいけなくなるし、できれば今使っているアイリッシュハープを習いたくて……。……やっぱりいなくなっちゃってる」
「なんていう先生?」
「加賀見正司かがみしょうじ先生」
名前を検索にかけると、割と多くの検索結果が表示された。その一覧のトップに、「倉敷芸術短期大学」と表示されている。
「この人、短大へ異動になったみたいだけど?」
「えっ? そうなのっ!?」
食いついた翠は、タブレットを舐める勢いで見始めた。
「本当だ……。この四月から短大へ異動になったのね……。しかも、短大のハープの先生って加賀見先生しかいないんだ……。っていうことは、ハープを選択したら、間違いなく加賀見先生に教えていただけるということよね……?」
「翠はピアノを勉強したいの? それともハープ?」
翠はきょとんとした顔で、
「どっちもだけど?」
翠は基本謙虚だが、ある一定の分野においてはひどく貪欲だ。これもそのひとつなのだろう。
普段あまり見ることのできない一面に、少し珍しいものを見た気分だった。
「受験、短大に変えようかな……」
「四大じゃなくていいの?」
「んー……確か、短大から四大へ編入手続きできる制度があったはず……」
翠は短大のサイトをざっと見て、
「あ、これっ!」
その項目をタップした。
「成績優秀者に限り、四大への編入を認める、か……」
「だから、成績如何によっては無理なのだけど」
そう言うと、翠は苦笑を見せた。
和やかな時間を過ごして八時五十分に翠をゲストルームへ送り届けると、俺は戻ってきた部屋でケーキプレートの片付けをしていた。
「別に洗い物とか気にしなくていいのにな……」
でも翠は気になるらしく、次にうちに来るときまでにゴム手袋を用意してくる、と言っていた。なら俺は、翠が持ってきたゴム手袋を吊るして保管できるように、クリップフックでも買ってこよう。
片付けが終わってからコーヒーをドリップし、リビングて一息つく。
翠を抱くことは断念せざるを得なかったけど、それでも十九年生きてきて、間違いなく一番幸せな誕生日を過ごせた。でも来年は――
俺は支倉へ拠点を移し、翠も新生活が始まる。果たして、こんなふうに時間が取れるのかも謎だ。
そのあたりのことを考えると、来年までに車を手に入れることが課題にあがる。
最初から支倉のマンションで一緒に暮らすという方法もなくはないが、おそらく翠はこの提案を呑みはしないだろう。
どうあっても、一度は自分の力で通うことにこだわるはず。
翠の体調に異変が現れるあたりが言い出し時だと思うけど、タイミングを見誤ると翠の身体に負担がかかりすぎ、リカバリに要する時間が長くなる。
そのあたりを加味すると、ひとまず唯さんと和解して、唯さんを味方につけてバイタルアプリを入れてもらう、が正解な気がする。
唯さんと和解、唯さんと和解、唯さんと和解――……。
そんなことをするくらいなら、秋兄に頭を下げるか……?
否、やっぱりここは唯さんを味方につけるほうが後々色々使える気がする。
それと、一年前と同様に、翠には黙って碧さんや零樹さんには同棲の話を先に通しておくという手もある。
婚約は許されても同棲は許されないだろうか。
しかし、碧さんと零樹さんは学生結婚だし、こういったことに対してはうちの親よりも頭が柔らかい気がする。
そんなことを考えているうちに、幸せな一日は幕を下ろした――